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カテゴリ:老師「中論」御提唱( 17 )

11月15日受戒式ならびにご提唱

ドーゲンサンガ赤心会において、SさんNさんお二人が西嶋老師に受戒をお願いし、その儀式を11月15日に東京大学仏教青年会禅室をお借りして執り行った。
先生にご臨席いただき、小生が儀式代行を勤めた。
受戒者が三帰戒、三聚浄戒、十重禁戒の十六条の仏戒を持すことを誓い、切り紙と絡子を受けて儀式が終了した。

その後講義室で西嶋老師による中論第6章のご提唱。

感覚的刺激について、それを与えるものと、その感受は別のものではなく同時に実現する。

質疑応答では「本音と建前の使い分け」-仏道では否定される-をめぐって質問があった。
日教組を諸悪の根源と言った代議士についての質問で先生は
「日教組が問題があるのは事実。日本の最大の問題は教育だ」と。
また、航空幕僚長の論文問題では
「盧溝橋を爆破したのは日本陸軍の仕業。中国人を使ったかもしれないがやらせたのは日本陸軍であって、これをきっかけに中国大陸に進出していった。自分は当時すでに新聞を読んでいたが、当時物心がついていなかった人間が誤ったことを言っているだけ」と言われた。
ご提唱終了後、またこの問題に触れて、515や226事件の直前と今の状況が似ている、とおっしゃっていた。

その後東京ガーデンパレスの日本料理店で、受戒されたNさん(Sさんは所要で欠席)や幹事のメンバーと会食。

西嶋老師は11月29日で満89歳を迎えられる。かぞえで言えば卆寿。
お祝いに、田屋のカシミアのカーディガンをお贈りした。

赤心会の0さんがタクシーでお送りし、受戒・提唱・会食の予定を終了した。

これで年内の西嶋老師による「中論」ご提唱は終了。来春は3月21日に開始の予定。
先生は「中論」の日本語再改訂を終わられ、英語の再訳をブログに順次掲出しておられる。
お元気なのが大変ありがたい。
by doutetsu | 2008-11-16 17:49 | 老師「中論」御提唱

10月18日西嶋老師「中論」ご提唱

冒頭、「中論」日本語訳の再改定が終了した旨、お話があった。
金沢文庫より出版された後は新訳をテキストにご提唱いただけるとのことで喜ばしい。

第4章『集合体に関する検証』の続き、第3頌より。
第4章は、客観世界がどういうものか、を扱う第3~7章の1章。
65ページ
第3頌 「不合理なものの不存在」
●外見という考え方があるため外見と本質が別々に見えることがあっても、両者はひとつのもの。この世にありえぬ不合理なものが本質と見える場合はその不合理も本質も実在しない。
第4頌 「本質と外見」
●本質は外見に見える形では現れない。本質は外見に見えない形では現れない。本質と外見が分離できない現実の事態の「要素」であるから矛盾した主張が同時に成立する。
第5頌 「本質的な転換の欠如」
●根拠の無いものが世の中に現れることはなく、実体なしに外見だけが現れることもない。転換とは瞬間が次の瞬間に推移することであり、現在の瞬間に転換という事実は実在しない。
第6頌 「現実の行いは居心地の良い悪いと無関係」
●実行された仕事が現実の事態として世の中に現れるだけ。行いの最中は良い悪いは判らない。
第7頌 「一切の探求と外見的な世界」
●一切のものに対する探求は存在の中で行なわれ、進歩は外見を基準として行なわれる。
第8頌 「人間の自主性と管理された状態」
●人間が独立独歩の状態にあるときは、逆に用心深く、また落ち着いた態度をとることができる。回避できない問題はあるが管理された状態で迎えることができる。
第9頌 「均衡した状態と物事の成果」
●均衡した状態ならば人を非難する際ですら良く説明できる。非難されるところがなければ管理された状態で一切が具現化する。

73ページ
第5章
仏道では物質の存在は客観世界の解釈として認めている。理性でも感性でも世界の実在を確認することはできないが、自律神経が均衡しているとき、直感的な判断を通して現実世界の実在を確認することができる事情が述べられている。

第1頌 「現実的な空間の不可視性」
●なんらかの特徴と一体でなけれ空間を空間として認識することはできない。
第2頌 「物質と特徴」
●特徴のないものは存在しない。特徴が無ければ存在を認識できない。
第3頌 「特徴そのものの動きと現実の世界」
●特徴はその特徴を持つものと一体であり、ある特徴を持つものと持たないものが同時に存在する世界に実在する。
第4頌 「特徴の認識と事物の存在」
●特徴が認識できなければ特徴(物)も存在しない。
第5頌 「特徴の存在と特徴の認識」
●特徴の認識が気付かれなければ特徴の存在も認識されない。
第6頌 「存在、不存在の議論の無価値」
●この世が存在するかしないかは理性でも感性でも結論付けできない直感の判断の問題。存在しないという断定は許されない。 
第7頌 「物質そのものと判断」
●現実世界は(言葉では)存在するものでも存在しないものでもない。特徴もしかり。物質のありようである地水火風空(固体、液体、現象、気体、空間)は個々に独立している。
第8頌 「現実と実在」
●目の前の現実として見えている事物の実在を否定することは愚かである。事物は単に見えているだけではなく、静かな恵み深いものとして見えている。

10月18日は以上81ページ、第5章の終わりまで。
先生のご発言より。
『仏教は実在論であり、「中論」はそれを明快に説いている』
『今日の箇所も、特徴を認識できないものは存在しない、と観念論的に読むのは間違いで、存在しているものは特徴を有するの意』
『仏教は人間に重きを置いた教えだが、宇宙には人間が生まれる以前からやがて人間を生み出す要素があったわけで、人間を大事にするのと同時にその要素も大事にしなくてはならない』
『霊魂は存在しない。中論は繰り返し明言している。死ねば暗闇で永遠の休みがとれる』
『生きている以上、生きている社会や世界を知りたいと思うのが人間であり、またそうでなければ意味がない』

次回は11月15日(土)。年内のご提唱はこの回まで。
by doutetsu | 2008-10-19 15:55 | 老師「中論」御提唱

西嶋老師「中論」ご提唱9月20日

夏季休館明けで2ヶ月ぶりの西嶋老師のご提唱。大勢の聴講者が集まった。

テキスト52ページ、第3章より
全部で27章からなる「中論」において、第3章から第7章までは、われわれが住んでいる客観世界がどのような実情の世界であるかを説いている。
感覚・物質存在をを扱う科学的、唯物論的なまとまりであり、四諦との関連では「集諦」に相当する。

第3章「眼その他の感覚器官に関する検証」
ここでは、客観世界を受け入れる直接の窓口である感覚の問題を取り上げている。
52ページ
第1頌 「6種類の感覚作用」
<眼耳鼻舌身意:色声香味触法>
第2頌 「物を見る働きの役割」
<われわはものを見ることで心があることを知る。そのことを目で見ることは出来ない>
第3頌 「現実の実体と言葉による説明」
<見られた事実の表現は言葉による説明であり、現実の行いとは異なる>
第4頌 「思考と感受作用」
<思考作用がなければ見ることにより「ある」ことを知ることはできない>
第5頌 「感受作用の不可見性」
<見る働きが見られることはない。見ることで外見を説明することができ、本質を思考することが可能になる>
第6頌 「見えている事実と見るという働きの融合」
<見る働きはそれ以上の意味は無いが軽視することのできない現実的なものである>
第7頌 「現実世界の実在」
<見られたものと見る働きはひとつである。現象は実在する>
第8頌 「全ての感受作用に関する共通の説明」
<他の感覚-聞く、嗅ぐ、味わう、感覚を統合する-も上述の見ることと、同様である>
続いて。
第4章『集合体に関する検証』
第1頌 「外見と本質の融合」
<外見と本質は一体となって見えている。頭の中で分けることはできるが、現実は一体>
第2頌 「現実の世界における不合理の否定」
<外見にこだわると外見と本質が異なるように見える。現実世界に不合理は存在しない。人間が「目的」を持つと不合理が可能になる>

9月20日は以上64ページまで。

西嶋老師のご発言より。
『「中論」を理解するのに50年かかった。本当にわかったと思えたのは今年の春』
『何が実在かといえば、行いこそが実在である』

次回老師ご提唱は10月18日(土)
by doutetsu | 2008-10-19 15:27 | 老師「中論」御提唱

西嶋老師「中論」特別提唱記録7月19日

東京大学仏教青年会にて。聴講者は約30名
引き続き『第二章「行った」、「まだ行っていない」に関する検証』の章のご提唱。
今回で第二章の最後まで終了した。
■範囲
第十三頌(行くという現実の行いと認識、追憶、想像)
第十四頌(追憶、認識、想像と行くという現実の行い)
第十五頌(一切の動きの躍動性)
第十六頌(行くという現実の行いと行くという動き)
第十七頌(認識、追憶、創造のような壮年の消失と現実の行い)
第十八頌(行くという動きと行くという現実の行い)
第十九頌(実行することと実行そのものとの融合)
第二十頌(行くという事実と行くという現実の動き)
第二十一頌(統一的なそして個別的な事実の実情)
第二十二頌(行くという動きそのもの先行)
第二十三頌(行くという事実と行く人との融合)
第二十四頌(現実の世界と行くという現実の行いと行く人)
第二十五頌(現実の事態と認識)
■途中のご解説より。
『世の中に実在するのは「行い」である。
頭で考えることも、感覚器官で感じることも実在ではない』
『キリスト教で最初にくるのは「ことば」。仏教で最初にくるのは「行い」』
『言葉の説明も価値がある。哲学の限界を知ることが現実を知るうえで重要。哲学が消えたところから行いが生まれる』
『人間はやりたいことをやる自由と、やりたくないことをしない責任がある』
■第二章の最後まで行ったところで、老師が突如英語で今日のエッセンスを説明されはじめた。振り向くと、後ろの方に最初はいなかった外国人の聴講者が3名、着席していた。
■提唱の後、中論の文章やご説明をめぐって活発な質問があり、西島老師はそのすべてに丁寧に回答された。
8月は東京大学仏教青年会が夏季休館となるため、次回は9月20日(土)となる。
テキスト「中論(改訂版)」52ページ、第三章より。
by doutetsu | 2008-08-24 18:55 | 老師「中論」御提唱

6月28・29日 老師関西ご巡錫による「中論」提唱

6月28日、29日。関西ご巡錫による「中論」提唱が行なわれた。
8時45分に高島平のご自宅に西嶋老師をお迎えに行き、10:30の「のぞみ21号」で新大阪へ向かった。
春から延期になっていた関西ご巡錫と「中論」ご提唱。
新大阪駅でドーゲンサンガ大阪のGさんに出迎えられる。今回の西嶋老師関西ご巡錫/提唱はスケジュールから会場押さえ、旅費、宿泊費、会場費まで実質Gさんの布施による。
大阪証券取引所会議室で14時よりご提唱。また懐かしい顔をそろった。初めての方も含め11名。
昨年11月の関西ご提唱(枚方・天満)で1章、2章が終わっているため、第3章から。
第3章から第7章までが西嶋先生の分類では「物質/客観/感覚に関する検証<集諦>」のパートにあたる。
28日は、1章、2章の簡単な振り返りのあと、
第3章『眼その他の感覚器官に関する検証』
第4章『集合体に関する検証』
のご提唱が行なわれた。夕方は同じビルの地下で、新たに駆けつけた3名とともに賑やかに食事をした。
翌29日。同じ会議室で、16名を相手に
第5章『物質的な要素に関する検証』
第6章『興奮と感受されたものとの融合に関する検証』
を解説されたのち、質疑応答に入り、会議室に運ばれたお弁当を食べながら新幹線の時間ぎりぎりまでお話しされた。

2日にわたって、老師は持論を再々述べられた。
『4つの哲学を重ね用いる釈尊の教えは、ナーガルージュナ、道元禅師の著作に明快に説かれている。この教えこそが最終の哲学であり、合理性のきわみであるがゆえに「信仰」するのではなく信じざるを得ない。一方で現実世界の(政治経済の)動向はすでに大きなひとつの力によって統制されつつあり、その意味で人類社会の流れは決しつつある。その勢力に指導原理としての釈尊の教えを提供しなくてはならない』

88歳の老師の元気なお声が、会議室に響いた。
そのお姿に接することができ、大阪、京都、名古屋、松坂、高知から駆けつけた弟子の皆さんはうれしそうだった。

ドーゲンサンガ大阪のGさんは新幹線のプラットフォームまで見送りに来られ、老師に次回、10月関西ご巡錫の依頼をされた。新幹線の中で出発まで老師は通路に窓の外を向いて立ち、Gさんは最後はよくお顔が見られるように列車に向かって膝をつき、しばしの別れの挨拶をされた。
静岡のあたりは大雨だったが、東京駅に着くと小降りに収まっていた。高速を使い、17時でご自宅までお送りすることができた。
2日間の関西行きで、移動はすべて車だったため歩いた時間は日課の散歩と比べて短い様子だったが、立ったり坐ったりの動きが多くお疲れになったことと思う。そうはおっしゃらずにただ、
「皆さんにこんなにしてもらって良いのかと、それが気になります」
とおっしゃった。

以上
by doutetsu | 2008-07-07 02:12 | 老師「中論」御提唱

6月21日 西嶋老師「中論」提唱@東大仏青

6月21日

この日は第2章『「行った」、「まだ行っていない」に関する検証』入った。
テキストでは改訂版中論24ページより。
西嶋老師によると、第1章、2章は全部で27章からなる中論の章立てを4分類した場合の「理論・観念的検証<苦諦>」の分類に属する。
15:30~16:30で第1頌~第12頌まで進み、質疑応答が行なわれた。
第1頌(行くことに関する追憶、想像、認識と行くという現実の行い)
第2頌(手足の動きと行きつつある事実)
第3頌(現実の行いの実状)
第4頌(現実の行いの実体)
第5頌(「行きつつある」という事実と行くという現実の行い)
第6頌(行くという動作と現実の行い)
第7頌(行為をする人と現実の行い)
第8頌(行く行かないという動きと行くという現実の行いい)
第9頌(行くという動きと行くという現実の行い)
第10頌(行く人と行くという動きと行くという現実の行い)
第11頌(行くという現実の行いの実在)
第12頌(行くという現実の行いの始期)
以上の各頌の提唱の概要は次の通り。
『頭の中で「行った」という追憶、「まだ行っていない」という想像、「行きつつある」という認識も、現実の世界で実際に行く行いとは次元が異なる。同様に「行く人」と「行く動き」を分けるのも頭の中でことであって、現実の行く行いとは異なる。考えることとは別の行くという行いが現実』

次回は7月19日
by doutetsu | 2008-07-06 22:21 | 老師「中論」御提唱

5月17日 西嶋老師 英語による特別講義

スウェーデンの方が老師の講義を録画したいと希望している、というお話を伺って、この日の「英語の会」を西嶋老師の特別講義とし、日本語の「中論」御提唱は31日に延期した。
ところが、定刻になっても先週老師のお宅で話をしたというスウェーデン人は現れない。集まった外国の方たちにはこの日先生からの講義と案内しているので、英語の会のSさんと相談し、20分遅れで先生に講義を始めていただいた。
先生は準備されたレジュメを使って約1時間講義され、その後英語での質疑応答が行われた。
参加者は外国人8名、日本人8名の16名。


英語の講義のタイトルは、
The Euro-American Civilization and Buddhism
であり、レジュメの概要は以下の通り。

人間の精神的考察に基づく観念論と感覚認識に基づく唯物論という相容れない哲学のおかげで欧米の文化は大変進歩したのと同時に矛盾した状況を強いられてきた。
奇妙なことに古代インドにおいても観念論と唯物論の対立が存在した。
紀元前12、3世紀には(観念論的な)バラモン教が力を持っていたが、前3~5世紀に衰退し変わって唯物論あるいは一種の懐疑主義的な哲学が勃興した。
仏陀が生まれたのはまさにその時代だった。
仏陀は真実を求めて最初2人の師のもとで観念論哲学を学んだあといくつかの苦行を試してみたが成果を得られなかった。
その後現在坐禅と呼ばれる修行を行い、ある朝、山、川、草、木がすべて真実そのものであることに気づいた。
人間にとって現在の瞬間における行いこそが真実であることに気づかれたのである。

解説では、
「竜樹尊者は『中論』で仏教は実在論であることをはっきりと書いた。自分は中論を40年勉強してそれが判った」
とおっしゃった。

この日スウェーデン人はついに現れなかった。
後日先生に伺ったところキリスト教と仏教の融合というテーマで勉強していたがキリスト教から離れることが難しく、気持ちが変わったらしいとのこと。
事前に参加者に変更をお伝えしなければならず、それでも2名の方が先生の日本語の中論講義を聞きに来てしまい、ご迷惑をかけた。
救いなのは、英語の会の聴講者にとって、久しぶりに先生の話を直接聞けたのは良い機会だったらしいこと。

先生をSさん、Oさんがお送りし、その後日本語の会で
「正法眼蔵 栢樹子」を講読。テキスト現代語訳正法眼蔵第6巻109ページまで進んだ。

次回、西嶋老師ご提唱は5月31日。
赤心会による「正法眼蔵 栢樹子」の続きは6月7日。
by doutetsu | 2008-06-01 23:09 | 老師「中論」御提唱