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赤心会 後期第1回 9月16日 坐禅箴 第4回

現代語訳P34 道元禅師が唯一認めるところの、宏智禅師の坐禅箴の引用部。
「仏仏ノ要機、祖祖ノ機要、事ニ触レズシテ知リ、縁ニ対セズシテ照ス」
からはじめ、坐禅箴の引用と、各句をとりあげた道元禅師の解説が行われる。
解説の最後近く
P41「・・・これを奇なりと住持しきたり、了なりと保任しきたるに、我却疑著なり」
まで。


宏智禅師の坐禅箴冒頭。
仏道の肝心かなめである坐禅の、その内容は
『事ニ触レズシテ知リ、縁ニ対セズシテ照す』
すなわち、
具体的な事物を意識すること無く知る
ことであり、
周辺の環境と対峙し、見つめることなくして観照する
ことである。

日常生活では、覚醒していれば意識がある。意識は常に対象を持つ。
それにたいして坐禅の状態は、「意識の対象を持たない覚醒」といえる。

本巻冒頭の、薬山禅師の問答
『不思量底如何ンガ思量セン、曰ク、非思量ト。』

考えない境地を考えるというのはどういうことか、という問いに、
考えることではない、と答えたのは
対象のある思考ではない、と答えたものと「考え」られる。


今回の部分も実に端的、重要な教示が多いが、なるほどなあ、と思ったのは、道元禅師の解説の中の
『言中に向カッテ則を取ルコト莫レ』だ。
「何らかの言葉の中に規則を見つけ出して、それに従って一生懸命行動してはならない<西嶋老師提唱>」
わたしなどは他人の立派な言葉をだらしない自分の戒めにしようと常々思うのだが、決まり文句を使って世の中の現実を判った気になるのは浅はかなことかも知れない。
つまり。
抽象的な言葉のなかに真実を求めてはならない。


ここまで自分の言葉で解説をして、しかし、道元禅師は『我(われ)却(かえ)ッテ疑著(ぎじゃく)ナリ』と言う。
「どうも自分には疑問が出てしょうがない<老師提唱>」と言うのだ。
どんなに素晴らしい坐禅箴ならびにそれに対する自らの解釈といえども、コトバにした瞬間にそれで坐禅の本質を言い得ているか、疑問だ、とおっしゃる。

ここもまた、「真実」を捉えようとする、把握と否定の果てしない往復運動か。


なお、次回9月30日(土)は、赤心会は講義・解説はお休み。14:30からの坐禅だけ行います。
by doutetsu | 2006-09-18 14:52 | 赤心会ゼミ録
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