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4月16日「仏性」:生きものはすべて「仏性」を持つ。それは意識作用ではなく...

この日は22巻「仏性」の冒頭、第1~3節まで進んだ。
■第1節
釈迦牟尼仏いわく、一切の衆生は悉く仏性を有す。如来は常住にして変易あることなし。
経典からの引用でこの巻ははじまる。
西島現代語訳テキストでは仏性の巻を22の節に分けて講ずる。
正法眼蔵では、ひとつの巻の主要論点が最初にバン!と打ち出されることが多い。この最初の節でもこの経典のことばを様々に論じ、受け取るわれわれは「真理の体得」ということがどういうものなのか理解するための集中を求められる。
いのちあるもの、それを含む宇宙のすべては真理に包摂されている、という「信仰」。
また「悉(ことごと)ク有ス」という副詞+動詞の文言を「悉有(しつう)」という名詞と採り直し、「全存在」と意味づけて使う。こうした手段を多用して1点の真実へ向けて論理を研ぎ澄ませて行く。
これも正法眼蔵の随所にあらわれる。

たくさんキーワードがあるが、ここではひとつだけ次の引用をしたい。
P412行目
「尽界はすべて客塵なし、直下にさらに第二人あらず」
この宇宙には、宇宙以外の付け加えられた夾雑物はなにもない。私には私が意識する第二の私など存在しない。
こうした概念は道元禅師のテキストの中に繰り返しあらわれる。
さて頭の中のコトバでなく、実感できるか否か。

■第2節
「仏性の言を聞きて、学者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり<略>いたづらに風火の動著する心意識を、仏性の覚知覚了とおもへり」
仏の性質、と聞くと、多くの学習者は古代インドの観念論哲学者のいう自我がそれだと思いがちである。現象を認識する意識の作用を仏の性質における認識把握だと思い込む。

第2節目では真理を体得した者の性質を、意識作用ととってはならない、と戒める。
また後段では、仏性を草木の種のように思い、めぐみの雨がこれを潤すと生長し枝葉果実を茂らせるのだ、と考えるのも間違いだ、としている。

だいたいこんなもんだろう、というあて推量の解釈を道元禅師は許されない。

■「第3節」
ここでは時間的条件と「仏性」の関係が語られる。
再び経典からの引用。
釈尊が言った、「仏性」の意味を知りたければ「時節因縁(具体的な時間における環境条件)」を直感せよ。「時節」がいたれば「仏性」が現れる。
このテキストを解釈して、古来多くのやからが、「仏性」はいつか機会が来たら現れるものだろう、それを待って修行していればいい、と思っているが、間違いだ、と一刀両断。自然主義的な一派の勘違いだぞ。
今がその時節だと知ればまさに今、仏性の意味を知るのだ、と。
そして、こう結ばれる。
具体的に到来していない時間はありえない。仏性が現れていないという仏性はない。

少なくとも、いつかやってくる「仏性」を待つというのはいけない、というのは明らか。
by doutetsu | 2005-04-24 11:37 | 赤心会ゼミ録
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