正法眼蔵と輪廻 西嶋老師は


「袈裟功徳」の提唱録に残された質疑応答で、「中有」という用語の使い方が、他の巻で読み取れる‘生まれ変わりの否定’と矛盾している、というやりとりに関連して。
7月16日の提唱(音声)聴講後のディスカッションの際、「仏教思想のゼロポイント」の著者である魚川祐司氏の「『ブッダは輪廻を説かなかった‘はずだ’』論批判」を振りかえりました。(ニー仏(魚川祐司)「だから仏教は面白い」から)

いわく。
輪廻否定派の言説の例に、『仏教では「無常・苦・無我」を謳う。無我なのに何が輪廻するのか』というものがあるが、無我と輪廻は矛盾しない。
無常:現象世界はすべて‘縁生’であり、因縁によって変転し続ける。
苦:すべて変転する以上、満足状態にとどまることは不可能。
「苦=不満足」の繰り返しになる。
無我:変転極まりない現象世界で‘常一主宰’の我は存在しない。

不変の主体が生まれ変わることが輪廻ではない。すべてが変転していく(輪廻する)中のある部分を切り取って、‘ある個人の一生’とみなすことができるに過ぎない。
ということのようです。

加えて、インド思想における「業」の概念。
インド思想において人間の行い=「業」は必ずあとあとに影響する。潜勢力を持つ。
これは西嶋老師が「仏教は行いを中心とする教えである」と説かれる際の説明とも共通します。
魚川氏は著書で、(西嶋老師も著作を読んだと言われた)木村泰賢博士の輪廻の説明を提示します。その概略は..。

Aという個人が死んでもその人間が人生の瞬間瞬間(A1、A2、A3・・・An)に行った「行い」は必ず影響を残す。
その影響aは‘次の’生存者であるBに及び、そのときBの生涯はaB1からスタートする。
Bmで死んだBの業はCの(初期)設定に影響し、すなわちbC1となる。
以後繰り返し。
これが輪廻だ、と。
はたして腑に落ちるか、という話になりました。

***

「私の生涯」は現象世界に生起するなにごとかの部分に過ぎない。
たしかに。
一方で、今ここにいある「私」の実存の実感はかけがいがない。

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関連して思いだす西嶋老師の言葉をいくつか。
「ないです。死ねば永遠の休息があるだけ」(「死後の世界はあるか」と聞かれて)
「断見≒唯物論も外道、常見≒観念論も外道」
「我々ひとりひとりの行いは宇宙の歴史に永遠に刻まれる」

‘私の’死後はあるか、と聞かれれば、「わからない/ゼロ回答」というのが妥当解とされるけれども、「無い」という言明のほうがより‘正しい’、というお考えだったのでしょうか。
by doutetsu | 2016-07-29 23:58 | 活動・連絡
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