2015年5月2日講読「正法眼蔵 弁道話」

坐禅の後講義室にて、「正法眼蔵」講読 8名。
範囲はテキスト「現代語訳正法眼蔵第1巻」44ページから52ページまで。
「弁道話」のいわゆる18問答の第8問答から第13問答まで。
中で長文なのが想定問答の10番目にあたる、「心性常住」すなわち霊魂不滅の説に対する批判の節。
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あるひとがいわく、霊魂は不滅であって、肉体が滅んでも魂の世界に入っていくのだから、生き死にを嘆く必要はない、と。これは釈尊以来の諸祖の教えにかなうことか。
「しめしていはく、いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼外道の見なり」
教示していう。それは仏教的世界観とはまったく異なる、唯心論者Senika等の非仏教徒の見解である。
「しるべし、仏道はもとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる」

「常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心をわくことなし。
寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし」
不滅とみれば実在するものはすべてかたちを変えながら存続して不滅であるといえる。
変化するとみれば、心は瞬間瞬間に変わるし、本質といおうと外形といおうと不変のものはない。
「生死はすでに涅槃なりと覚了すべし」
この生き死にの世界こそが至福の境涯であると了解せよ。
「仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし」
大乗起信論にある‘心真如即一法界大総相法門体’とは、この世の中の一切が心であり魂であるという見方であるが、そこにおいて本質と形相を区別することはなく、必滅・不滅を主張することもない。
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講読後のディスカッションでは大乗仏教の根本とされる「身心一如」と、上座部仏教では前提とされる「輪廻」について話が出た。




正法眼蔵は本日の箇所においても「輪廻」に否定的であると見える。
西嶋老師も完全に否定されていた。
一方たとえばテーラワーダのスマナサーラ長老は、輪廻の有無は(いまの科学では)証明できないが自分は信じる(し、お釈迦様も事実と考えていた)と説く。(『死後はどうなるのか』)
ちなみに、西嶋老師は「刹那生滅」を強調された。
スマナサーラ師は「生滅変化」を説く。
ともに重視するのは目の前の自分の生活であり、修行である。
それ以外にも、因果は絶対であり、行いは影響を及ぼす(自業自得)についても同じ。
常に次の瞬間に行いを(善いほうを)選ぶ自由を我々は持っている。善行は善果を導く、という点も。
どう生活するべきかについての「教え」において大きな違いはないように見える。
ともに道義・倫理を重要とされる。
倫理や道義がなぜ必要か。どこから汲み出すか。
西嶋老師は「自分のやった行いは、宇宙の歴史にファイルされ永久に取り消すことはできない」と、しばしば言われた。
そのことを自らの行いを正す根拠と説かれているように聞こえた。
上座部は、輪廻があるから来世のために現世を正しく生きる(加えてさらに輪廻からの離脱を願う)べき、と説いている。(前掲書)

西嶋老師は自律神経のバランスが涅槃であると説かれた。
近年の研究では人間が進化のプロセスで機能化した、行為への報酬として分泌される脳内物質は次の4種と整理されているという。
エンドルフィン(苦痛の緩和)、ドーパミン(達成の快感)、セロトニン(帰属・賞賛の快感)、オキシトシン(愛情・利他の幸福感)。過度なドーパミン志向がバランスを欠いた競争社会を生み出しているという見方もある。
素粒子の話も出ました。

最期に、様々な観点(四諦論や科学的視点)から仏教をディスカッションする場は西嶋老師のサンガならではではないかという感想がありました。
by doutetsu | 2015-05-10 16:35 | 赤心会ゼミ録
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