『52.正法眼蔵 仏経』講読

5月29日(第5土曜)、6月5日(第1土曜)の2回で『仏経』の講読を終わった。
各会参加者/聴講者は9名。
テキストは西嶋老師の『現代語訳正法眼蔵第8巻』
西嶋老師の訳ならびに提唱記録に基づき購読した。
<次回予定。6月19日は西嶋老師による『中論ご提唱』
 赤心会による正法眼蔵講読は7月3日、同テキストの「53.無情説法」に入る>

本巻は仏教経典に対する道元禅師の考え方が述べられている。
昔から仏教経典については、簡単に言えば、これを絶対視する考え方と、『不立文字、教外別伝』として軽視する考え方の二通りがあると言われる。
『正法眼蔵』における道元禅師の考え方はその中間にある。
仏教は一つの思想であるからそれが盛り込まれた経典を読むことは大切である。
同時に釈尊の教えは単なる理論ではないから、経典さえ読めば事足りるということはない。
ただし、この巻においては仏教経典軽視への強い警めが説かれ、また釈尊の教えは宇宙の真実であるから、世界や宇宙のありようがそのまま仏教経典である、という『渓声山色』等の巻と同じ立場の主張が行われている。

テキスト21頁 【本巻の大意】より
「<略>したがって仏教経典は、仏教を学ぶ上において不可欠の要素となっているのであるが、仏教徒の一部には、不立文字・教外別伝などと称して、仏教経典を軽視する向もある。そこで本巻においては、このような仏教経典に対する偏見が正しい仏教思想でないことを説くと同時に、同じような立場から、三教一致すなわち道教・儒教・仏教が結局帰するところは一つであるとする思想をしりぞけ、逆に大満弘忍禅師が大鑑慧能禅師の人格を見抜かれたような事例もまさに看経の一種に他ならないことを述べておられる。」

【原文引用】
◆『いはゆる経巻は、尽十方界これなり、経巻にあらざる時処なし
◆<道元禅師の師、天童如浄禅師は、わが教団では焼香・礼拝・念仏・修懺(ざんげ)・看経を用いず只管打坐のみ、と常に言っていた。これほどの言葉を明言出来るものはまれである。
『看経をよんで看経とすれば触す、よんで看経とせざればそむく』
※経典を読むことが、ただ文字を読み頭の中で理解することだとするなら、経典を読むということを汚すことになる。経典は読んでも読まなくても関係ないと思えば、それは釈尊の教えにそむくことになる。
◆『仏経の達者にあらざればとて、みだりに仏経は仏法にあらずといふことなかれ』
◆『あるひは為人の手をさづけんとするには、臨済の四料簡・四照用、雲門の三句、洞山の三路・五位等を挙して、学道の標準とせり。先師天童和尚、よのつねにこれをわらふていはく、学仏あにかくのごとくならんや』
※「悟り」へ向けたノウハウ、ステップをあとから付け足すようなものは仏教ではない。
◆『古徳いはく、なんぢ経にまよふ、経なんぢをまよはさず
◆『広学措大は要にあらず、知人のまなこ、知人の力量、いそぎもとむべし
※広く学問したり、大きな仕事を取り扱うといったことは必ずしも重要ではない、本当の人間の価値を見抜く力こそ求めるべきものである。

このテクストに誰もが読み取れることは、
『釈尊の教え-思想体系には「因果の法理」と「刹那生滅」を中心に世界も人生問題もすべてが説きつくされている。並ぶべき他の教えは無いし、何が仏教で何が仏教でないかは明確に判定可能である』という確信である。

この確信を信仰という回路を経ずに共有することは可能だろうか。
by doutetsu | 2010-06-06 19:06 | 赤心会ゼミ録
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