新年度に際し、当会(赤心会)についてのご説明

4月4日は新年度第1回であり、初参加の方が多かったため、冒頭、赤心会について簡単に説明しましたので、当ブログでも掲出いたします。

【経緯】
「坐禅と正法眼蔵研究会-赤心会」は1970年代はじめより西嶋愚道和夫老師が指導された東京大学仏教青年会の正規の講座でした。
2002年に老師は各地の講座を休止され、その際のご指示によって弟子が当会を継続しており、現在は仏青の自主サークルと位置づけられています。
【活動内容】
坐禅をし、正法眼蔵を読む。これに尽きます。
正法眼蔵の読解は西嶋老師(著書・提唱録・聴講メモ)に従います。
正法眼蔵はたいへん難しく、いっぽうでスリリングでもある魅力の尽きないテクストであって、数多くの解説書がありますが、私たちは西嶋老師の現代語訳と提唱が最も論理的かつ平明で腑に落ちると考えるからです。
【ドーゲンサンガ】
老師は松下電器やカルチャーセンターその他、国内外各地で弟子を指導されました。
残された弟子たちは各地で「ドーゲンサンガ京都」「ドーゲンサンガ愛知」等々の名称のもと活動しています。
そのゆるやかなネットワークの中では当会も「ドーゲンサンガ赤心会」と称しています。

■△●

西嶋老師は、かつて正法眼蔵を地図にたとえられたことがあります。
坐禅の実践なくして仏教は無いけれども、道を誤らず迷わず進むために正法眼蔵という地図が必要である、と。

当ブログを閲覧される各位におかれましては、本年度もよろしくお願い申し上げます。

※4月18日は幹事(当ブロガー)が出席できないため、坐禅のみで、正法眼蔵の講読はお休みとさせていただきます。
# by doutetsu | 2015-04-05 16:40 | 活動・連絡

弁道話-主客を超え、知覚にもおさまらない、自受用三昧の直接体験

3月7日
道元禅師32歳の撰述とされる「弁道話」の2回目。テキスト「現代語訳正法眼蔵第1巻」20ページより。
坐禅とはどういうものであるかの説明。
よく知られた気迫のこもった言葉のある部分です。

『宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香、礼拝、念仏、修懺、看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ』
一系に正しく伝えられた坐禅こそが最高のものであって、それ以外の焼香、礼拝、念仏などは無用である。
『もし人一時なりとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、偏法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる』
人がほんのわずかの時間でも釈尊と同じ三業-身・口・意-すなわち手を組み足を組み上体を伸ばし、口を閉じ、思いを追いかけることもとらわれることもない状態で坐禅をすれば、宇宙全体が釈尊と同じ状態になり、この世界の一切が真実と一体になる。
『しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏(こん)せざらしむることは、静中の無造作にして直証なるをもてなり』
坐禅についての本人の知覚、意識されるところと、坐禅の実態は別物である。「わかった/わからない」「さとった/さとらない」というものとは無関係である。静かに何もしないでいることが坐禅であり、何かを考える、感じるという必要のない直接の体験である。
したがって、無数の「仏」とよばれる真理体得者が力をあわせ崇高な知恵をもってしても、
『一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ』

次に、これも有名な坐禅に関する18問答が始まります。その3問目の道元禅師が設定した想定質問は「そうは言っても例えば経を読んだり念仏を唱えることはやった感もあるし、悟るための手段になるだろうに、むなしく坐っていてどうして悟れるのか」。
これにこたえる中で、
『不信のひとはたとひをしふともうくべきことかたし、<略>しかあらずばしばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ』
すでに多くの真理体得者がこの「自受用三昧」-自分を受け取り自分を用いきる坐禅を味わってきたが、信じられないのであれば、やらなくていい。宇宙秩序は冷厳であって、人を甘やかしてはおかないことを恨むしかない。
経典は修行のありようを教えているのであって、修行をせず概念をもてあそぶことが真実を得ることにつながるなどとは説いていない。
だから、
『口声をひまなくせる、春の田のかへるの、昼夜になくがごとし、つひに又益なし』
▲○■
西嶋老師の説く仏教哲学のポイントのひとつに、主観と客観の関係の捉え方があります。
1978年に今回の箇所を提唱される前置きののなかで、主観と客観とは別々には実在しない。主観と客観が触れ合うところに現実がある、と語られています。
「ただ、坐禅のような形で、何も考えずに、背骨を伸ばしてジーッとしておると、確かに自分というものがここにはっきり坐っておるということを感じると同時に、この自分の坐っておる周囲には、とてつもなく大きな宇宙というものがあるということも一緒に感じる」-提唱録第1巻上P74
▲○■
終了後の談話で、仏教の哲学としての側面と宗教としての側面という話が出て、「宗教」は江戸期以前からあった言葉が異なる用法である「religion」の訳語にあてられた、という話も出ました。道元禅師の時代、世界を説明し人間の幸福を追求するために仏教以上に大きい「学」はなかったはず、とも。
仏教の「宗教」性。これに関する議論は数多いようです。
衛藤即応は、仏教がヨーロッパに紹介された当初、仏教に世界創生神話がなく「祈り」が無いため、学者間では「宗教」ではないものと捉えられた、と著書で紹介しています。やがて「祈り」のかわりに「禅定」を中心とする宗教ととらえ直された、と。
西嶋老師も明治以降流入したキリスト教的な「宗教」観によって仏教の捉え方が変容した可能性をしばしば説いていました。
▲○■
次回は4月4日。テキストP32からになります。
# by doutetsu | 2015-03-15 14:42 | 赤心会ゼミ録

西嶋老師の正法眼蔵解明の方法について<その1>

西嶋和夫著「現代語訳正法眼蔵第1巻」の巻頭には『緒論 正法眼蔵解明の方法について』があります。
そこでは、西嶋老師が正法眼蔵の解明、現代語訳にあたって採用した方法に関する特徴が以下の項目で説明されています。

1.飜訳的逐語訳
2.西洋哲学における諸概念の活用
3.体系的な全体的把握
(1)行為的世界観
(2)実存主義的世界観
(3)弁証法的論理
(4)宗教的伝統の裏付け
4.体験を通しての実践的把握

これらは西嶋老師の現代語訳を比類ないものとしている特徴であると考えます。
かつて三省堂書店神保町本店の仏教書のコーナーには、西嶋老師の「現代語訳正法眼蔵」全12巻が常に配架されていました。
その棚には書店員によるカードが貼ってあり「精確無比な現代日本語訳」と書かれていました。また老師の提唱類等も置かれていて、かなりのスペースが老師のご著書にあてられていたことになります。
当時近くのオフィスで勤めていた筆者はここの書店の宗教・哲学のコーナーに行く際はかならずこのカードの貼られた棚の前に立ち、誇らしい気持ちを味わったものでありました。

これからおりにふれ、西嶋老師が正法眼蔵を解明された方法の特徴を理解すべく、この緒論から引用し、ご紹介したいと思います。
今回はまず「1.飜訳的逐語訳」をお読みください。

「正法眼蔵は疑いもなく日本語で書かれた著作である。しかも古来難解の書とされ、殊に道元禅師を讃仰する識者間においてさえ、不可解の書と断定することがむしろ正しい解釈であるとまで誤認され、ひたすら敬遠の対象となってきた理由は何であろうか。その一つの大きな理由は勿論正法眼蔵が内包する思想の次元の高さ、ひいては仏教哲学そのものの次元の高さに求めなければならないであろう。しかしながらそれと同時に、今日我々が正法眼蔵に対して感ずる困難さの一つに、用語の難解さがあると思う。<※続きはMoreをクリックしてください>

More
# by doutetsu | 2015-02-23 19:29 | 西島老師について

今後の予定

ドーゲンサンガ赤心会では本日より再び正法眼蔵を最初から読み始めます。
本日2月21日は95巻本正法眼蔵第1巻「弁道話」の冒頭より。
テキストは今までと同じく西嶋和夫著「現代語訳正法眼蔵」第1巻です。
(テキストをお持ちでなくても参加可能です。)

14:30より45分坐禅
その後1時間講読とディスカッション

今後も従来通り第1、2、3土曜日に(仏青の休館日を除く)実施し、幹事の欠席等でテキスト講読が無い場合も坐禅は行う予定です。

よろしくお願いいたします。
# by doutetsu | 2015-02-21 09:40 | 活動・連絡

「一百八法明門」第3回、全巻終了。

坐禅ののち、「一百八法明門」の3回目。前回の続きでP171、実践項目の93項目目の「方便是法明門」から。
「方便」は釈尊の教えを説く手段。
<現代語訳p181>「すぐれた教化手段は、宇宙秩序を解明の出発点である。人々が見るところの威風に応じてわが身を現し、教化して一切の真理体得者が説いている宇宙秩序を達成するから」。
97項目目の「福聚」。
「福聚ハ是レ法明門、一切衆生ヲ利益スルガ故ニ」

提唱録の老師解説より。
「「貧しきものは幸いなり」、あるいは「積み深きものは幸いなり」というふうな教えもあるわけでありますが、仏教では、そういうふうな主張ではなしに、幸福というのはけっしてじゃまになるものではない、自分自身が幸福だと感じておるということは、釈尊の教えを勉強し、釈尊の教えをはっきりさせる糸口になる。
なぜならば「一切衆生ヲ利益スルガ故ニ」、自分自身が幸福であるならば、ほかの生きとし生けるものに対しても、さまざまの利益を与えることができる」

余分な私見ですが。
「方便」について思い起こすのは、絢爛豪華な御袈裟を来て儀式に臨む僧侶の姿。あれも衆生に対してみずからの威儀に説得力をもたせるため、という彼らなりの「方便」として、正当化されるのかもしれません。
「福聚」。こぶしを振り上げるから怒りが増す、食べれば食欲が出てくる、ともいいます。それでいけば、他人に利益(りやく)できることがすでに幸せを集めること、という見方もできるでしょうか。

この巻では最後にきてはじめて道元禅師の解説が付されます。
「いま初心晩学の輩のために、これを撰す。獅子の座にのぼり、人天の師となれらむ輩、審細参学すべし。<中略>行者みだりに我慢することなかれ」
この実践徳目の意義を知る者は少ない。まして人に法を説く立場になるならばつぶさに学ばなくてはならない。これを細かい、やかましい教えであって、たとえば「小乗的である」などと見くだし自分の境地に驕りを生じてはならない。

▲○■

これで「現代語訳正法眼蔵」の最終巻まで終了しました。
「現代語訳正法眼蔵第12巻」の最後で西嶋老師は「完結にあたって」という文章で、正法眼蔵の現代語訳に取り組まれた経緯と思いを書いておられます。
「そして筆者は正法眼蔵を解読しまた坐禅を日々実修していく過程において、正法眼蔵において説かれている仏教こそ、釈尊以来、原始仏教、小乗仏教、大乗仏教というように、時代の進展に従って展開して来た仏教思想の根幹に流れている真髄であることを確信した」

▲○■

メモをみると、2002年に老師が東大仏青での提唱を休止されて、その年末より自主サークルの活動として第1巻弁道話から読み始めました。その後紆余曲折を経て、12年間強で95巻+2巻の正法眼蔵全巻を読んできたことになります。
日本が誇る思想的古典である「正法眼蔵」を、ひと文字ひと文字を懸命に追いながら全巻を読み通せたのは、何よりも西嶋老師のおかげであり、また東京大学仏教青年会ならびに「坐禅と正法眼蔵研究会・赤心会」のおかげであり、深く感謝いたします。
# by doutetsu | 2015-02-08 15:51 | 赤心会ゼミ録

1月31日「一百八法明門」2回目

坐禅ののち講義室にて「正法眼蔵 一百八法明門」の2回目。
現代語訳と提唱録のご解説をたどっていきました。
道元禅師による『仏本行集経』から引用が大半の巻で、概要は前回記録をご参照ください。

テキスト170ページ。108(項目数は109)の‘法明門’の50番目、「諸入」から。
『諸入ハ是レ法明門、正道ヲ修スル故ニ』。
《感受(感覚器官を通じた刺激、それをそのまま受け入れること)は、釈尊の教えを明らかにする糸口である、なぜならそのことによって正しい教えを実行することができるから》
その後、四念処、四正懃、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道の三十七品菩提分法といわれる実践徳目が‘法明門’として列挙されています。
たとえば「正語」。
『正語ハ是レ法明門、一切の名字、音声、語言ハ響ノ如クナルヲ知ルガ故ニ』
《正しい言葉づかいは釈尊の教えを明らかにする糸口である、なぜなら一切のものの名前、人の話す声、言葉は‘響き’であるということを知ることができるから》
西嶋老師は提唱録で次のような解説をしておられます。
われわれの言葉は感情を交え内容をゆがめて語れられる場合が多い。正しい言葉を述べる努力を絶えずしていれば、言葉の中に感情が交じる、偏見が交じるということがなくなる。
「感情を交えずに、あるいは特別の個人的なゆがみを持たせずに、素直に語られた言葉、それが『正語』と呼ばれておるわけであります(提唱録1985年2月28日)」

109項目ある中で『正信』の語が最初と85番目に‘法明門’として2回出てきますが、2度目の述部には『最勝ノ法ヲ得ルガ故に』とあります。
また67項目目では『慧力(直観的な力)』が『二辺ヲ離ルルガ故ニ』‘法明門’、とあります。
関連してここでも西嶋老師は、理想主義の哲学と唯物論的哲学の「二辺を離れ」両者を統合するものである点で、われわれ仏教徒にとってだけでなく、現代において人間の行動基準になる唯一の教えであると、提唱されました。
この日は「六波羅蜜」と呼ばれる6種の徳目の最後、『智度ハ是レ法明門』まで読んで終了しました。

テキストをはなれ、この日は坐禅が初めての方がいたので、西嶋老師の坐禅指導について話をしました。
老師が言われたのはただ背筋を伸ばして坐る、毎日ただやり続けることが大事ということで、それ以外の細かいことはあまり言われませんでした。いわんや数息、公案、警策など余計なものは一切ナシ。
最近の図書のなかで坐禅についてかなり詳細に書かれている藤田一照師の『現代坐禅講義』においても、「坐相」は大切なものであるがそれぞれの人の「結果自然成」であり、ミリ単位で細かく基準に合わせることが正しいとは言えない、坐相-まっすぐ坐ること-に各々取り組むのが望ましいという説明があり、老師の指導と通じるものを感じます。
もちろん、何でもよいということでは決してありません。
筆者がかつて、静岡の坐禅会で前かがみになっていたところ自然に胸をはるよう両肩を後ろから開いていただいた経験を話したところ、Tさんは、肩に力を入れて坐禅をしていたら、老師がそっと両肩に手を置かれて鎮めてくれた経験を話されました。

安楽の法門である坐禅を一人ひとりが大事に坐り続けることが、老師の願われたことに思えます。

▲○■

次回は2月7日(土)。
参加者と相談して、次回は第12巻の「一百八法明門」を終わらせ、早く終わったら巻末の「完結にあたって」など読み、テキストが一巡したことを振り返ることにいたしました。
次々回、2月21日(土)から、第1巻の「正法眼蔵 弁道話」を開始します。
# by doutetsu | 2015-02-01 12:42 | 赤心会ゼミ録

ご命日

今日は128日。

1年前の今日、西嶋愚道和夫老師がお亡くなりになりました。

国内外で老師を慕う方たちは、それぞれ老師に対する思いを振り返りながらこの1年を過ごされたことと思います。

日本と海外の弟子達が各自の老師の思い出を文章にして、希望者は日本語・英語の両方で読める文集とするべく、有志が取り組んでいます。


合掌


# by doutetsu | 2015-01-28 09:07

「一百八法明門」実践徳目/愚かでないこと。殺さないために

1月17日(土)今年第1回目の会合。
45分の坐禅の後、講義室に移っての講読は「一百八法明門」
テキスト「現代語訳正法眼蔵第12巻」163ページ。
前回記載したとおり、昨年で正法眼蔵95巻本に編纂された巻すべてと、別輯第一「仏向上事」を読み終わり、テキスト最終巻の最後の巻に入りました。
▲○■
163ページのタイトルに『別輯第二、正法眼蔵第十一、一百八法明門(十二巻本正法眼蔵第十一)』とあるようにこの巻は十二巻本正法眼蔵にのみ入っている。
その概略は冒頭「本巻の大意」により以下のとおり。
『法明とは宇宙秩序の解明を意味し、法名門とは宇宙秩序解明のための過程を意味する。そして一百八法明門とは、正真、浄心、歓喜等にはじまる百八種類の具体的な徳目であるが<略>しかしながら仏教は、元来現実の宗教、行動の宗教であって、このような実践に関する徳目こそ、仏教における生きた内容そのものに他ならない。
そしてこのような観点から道元禅師は、仏本行集経巻六に見えている一百八法明門に関する記載を引用されて、個々の具体的な実践上の徳目がじつは仏教の実体そのものに他ならないことを力説されている。』

経典の引用ではじまる。護明菩薩が人間界に降りる直前に天上界の神々に「法明門」を説こうとする宮殿の荘厳さが表現されたのち、108の項目が説示される。
その第1は、
『正信是法明門、不破堅牢心故(正信は是れ法明門、堅牢の心を破らざるがゆえに)』
(現代語訳:正しい信仰は宇宙秩序解明の出発点である。堅固な心を破ることがないから)
と「正信」からはじまり、以下
「○○(実践徳目)は法(釈尊の教え)明(はっきりさせる)門(糸口)になる、なぜなら●●だから」
という漢文が続く。
西嶋老師の現代語訳や提唱録から抜粋すると。
15項目目『非是法明門、不殺害衆生故。』 
⇒他者の不幸に悲しみを感じることは法明門である。生き物を殺すことが無くなるから。
24『実是法明門、不誑天人故。』
⇒真実を基準として生きること。神々をも人々をもだまさないことになるから。
25『真是法明門、不誑自身故。』
⇒ありのままであること。それは自分自身をだまさないということだから。
48『陰方便是法明門、知諸苦故』
⇒人の見えないところで努力すること。ほかの人々の苦しみがわかってくるから。

「殺さない」ということについては、40項目目にも『不癡是法明門、断殺生故』とある。
愚かでないことは宇宙の秩序/釈尊の教えをはっきりさせる糸口になる。それは殺生を断ち切ることだから。
西嶋老師は「われわれが無用の殺生をするのは、愚かさが原因である、という主張がされておる」と解説された。

本巻の大半をなす引用部分は釈尊が兜率天にいて真理体得者=仏になる前、護明菩薩と呼ばれていたとき、人間界に降りる直前に説いた説法という構成になっている。
そういった意味で物語であり、巻末を除けば途中に道元禅師の解説-拈提-もなされていない。
思想体系を構成するものとしては意義が薄い巻ではないか、という疑問が西嶋老師の過去の提唱の際にも受講者から呈せれらている。
しかし、西嶋老師は108の項目を実践徳目としてここでも一つひとつきちんと解説された。
それは「行いの哲学」としての仏教を学ぶ上で、自分の身に引き寄せて考える主体性があれば、他の巻と同じく自分の生死=日常生活をかえりみ、難しいながらも意義を汲み出す意欲を刺激する大切な提唱であった。

この日退出する間際に、ある出席者が言われた。
「私たちが読んできた正法眼蔵の最後にこの巻があるのも何か意味があるような気がします」

▲○■
次回は1月31日。テキスト170ページ最終行『諸入是法明門』からとなります。
# by doutetsu | 2015-01-18 14:18 | 赤心会ゼミ録

年頭にあたって

あけましておめでとうございます。
本年も東京大学仏教青年会で実施させていただいている自主サークル、「坐禅と正法眼蔵研究会」-参加者間の別名は「ドウゲンサンガ赤心会」-についてこのブログで連絡・発信いたします。
年頭にあたり、坐禅とともに読み進めてきた正法眼蔵の読み込みを振り返り、今後の予定についてご説明します。

■自主サークルとして95巻を通読
昨年11月、「正法眼蔵」の全95巻を一通り講読し終えました。
東大仏青の正規講座としてながらく西嶋愚道和夫老師が奇数土曜日ごとに指導されてきた当会ですが、西嶋老師が中論の再翻訳(英訳、日本語訳)に注力されるため各所での指導を休止されるにあたり、当会の継続を現在の幹事に指示されたのが2004年でした。
その後の10年間は、(株)井田両国堂様の篤志で出版された「正法眼蔵提唱録」や当ブロガーが老師から受けた提唱時のメモをもとに講読を続け、都合がつかないときは他の幹事が話をするなどして、なんとか皆でこの場を守ってきました。途中数年間の春から秋までは月にいちど西嶋老師をお迎えして「中論特別提唱」を実施していた時期もありました。

2010年末に老師は体調をくずされ、2014年1月28日95歳で逝去されました。

現幹事が老師より、この場を継承し会を続けるよう、穏やかながら固く命じられてから丸10年。老師がお亡くなりになった2014年に全95巻の講読も一巡しました。
それはしかし、どうにか老師の現代語訳と提唱録をたどり終えた、ということであり、西嶋老師に直接提唱いただければ、せめて質問でもできれば、よりぶれのない読みと理解が進んだであろうことは疑いようがありません。

■現在の進捗
本会のテキストである「西嶋和夫著 現代語訳正法眼蔵 全12巻」では95巻本の最後に「八大人覚」を取り上げ、その後に別集として
「正法眼蔵仏向上事(秘密正法眼蔵第一)」
「正法眼蔵一百八法明門(十二巻本正法眼蔵第十一)」
の原文と現代語訳が掲載されています。
昨年12月にそのうち「仏向上事」の講読が終わりました。
今月17日からは最後の「一百八法明門」から講読をはじめ、おそらく3、4回で読み終わることになります。

■その後の活動
西嶋老師は道元禅師の各種著作の提唱録を残されており、そうした他のテキストを読んでいくことも検討しましたが、会員で話し合った結果、もういちど「正法眼蔵」95巻を「弁道話」から読み直していくことといたしました。

カレンダー上年間20回強の会合が予定されておりますが、昨年同様、幹事の仕事等の都合により、講読が行われない会もあると思います。機会があれば西嶋老師から嗣法した他の弟子の方のお話を聞いてはどうか、という提案もあり検討してまいります。
ただ、講読・懇談がどのようであれ、毎回必ず坐禅は行うことを予定しています。
師の丹羽廉芳禅師に「文字禅」の文字をいただき、道元禅師のテキストの正確無比な現代語訳をされた西嶋老師ですが、同時に、坐禅をはなれて文字と理屈だけで学ぶ仏道には意味を認めなかったその教えを、当会では継承してまいります。
# by doutetsu | 2015-01-01 23:52 | 活動・連絡

95.正法眼蔵八大人覚

坐禅の後、‘95.八大人覚’を講読。テキストは西嶋和夫著「現代語訳正法眼蔵第12巻」
(本巻の大意)より。
『八大人覚とは、釈尊が亡くなられる直前に説かれた教えであって、仏垂般涅槃略説教誡経すなわち遺教経の説くところである。それは少欲、知足、楽寂静、勤精進、不忘念、修禅定、修智恵、不戯論の八つをいい、いずれもきわめて具体的な実践道徳である』
本巻の大半は遺教経からの引用である。
その内容は、釈尊が涅槃に入られる前最後に比丘等に説かれた、‘偉大な人物が覚知している八項目の実践’にして、涅槃に至る道。
1.欲求を広く追い求めることをしない。
2.すでにあるもので満足する。
3.一人で衆を離れて静かに過ごす。
4.努力精進する。
5.気持ちを落ち着かせ集中を保つ。
6.心身の安定を実践する。
7.教えを聞き、思索して智慧を実践する。
8.遊戯的な議論を離れる。

最後段で道元禅師はこの「釈尊最後の教勅」を仏弟子は必ず学ばなくてはならないと強調される。結句は次のとおり。
『いま習学して、生生に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏にひとしくして、ことなることなからん』
建長5年(1253年)の正月6日に書かれた、道元禅師最後の示衆の巻である。同年8月28日、示寂。
この巻にはさらに懐弉禅師の追記がある。
いわく、道元禅師は今まで撰した正法眼蔵を書き改め、かつ新たに書き加え、全百巻に再編することを企図されたが、病が重くなってそれを果たせず、この八大人覚は新編の十二巻目にあたり、かつ最後のお教えであったと。道元禅師を慕う人は必ずこの巻を書き写し護持すべきである。
『釈尊最後ノ教勅、且ツ先師最後ノ遺教ナリ』
■■
ディスカッションでは
「釈尊最後の教えについては、これ以外のものも伝えられている。
「哲学的というより、まさに実践道徳。特に少欲知足などは現世・世俗哲学のきらいもある。
といった声もあった。
西嶋老師は、道元禅師が大事だと言われたものは、典拠の評価や正統性の問題を超えて必ず大事なものである、というお立場で提唱された。
ドウゲンサンガにおいて「正法眼蔵」を読むことは、西嶋老師の厳精な読み解きに導かれて道元禅師のテクストと向き合うことであり、そこに自分自身の人生に活かす「何か」を汲み取りたいと願う。

■■■
今年はじめに西嶋老師が亡くなられた際、お通夜で御導師に経文を渡され唱えたのがまさにこの「遺教経」であった。
# by doutetsu | 2014-10-19 17:33 | 赤心会ゼミ録