即心是仏/修行/イスラム国

12月5日(土)
坐禅室で45分の坐禅ののち、講義室へ。参集者は8名。
「六、正法眼蔵 即心是仏」を2回目で読了しました。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳正法眼蔵第一巻」。
最初に幹事のO氏より、ご自身が制作した冊子、「現代語訳正法眼蔵(普及版)第一巻」が配布されました。
正法眼蔵原文と西嶋老師の現代語訳を一文ずつ対照し、さらに「提唱録」からも適宜補足を引用した労作で大変読みやすい副読本です。



西嶋老師による本巻の大意解説<p125>
「仏教の説く真理を簡明に語る一つの言葉として、馬祖道一禅師等によってとなえられ、古くから支那において活用されて来たものの一つに、即心是仏すなわち「今日唯今の意識こそ真理そのものである。」という主張があるが、本巻はこの即心是仏という主張を疑り上げ、大証国師に関する説話を引きながら、道元禅師御自身の解釈を述べられたものである。」

内容を800字以内で要約すると次の通り。
巻頭の一文から。
『仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは即心是仏のみなり』
「今のこの心がそのまま仏そのもの、
仏教界の諸先輩が例外なしに保持して来た唯一のものはこれである。
仏教の本来的に重要な教えであるにもかかわらず多くの人に誤解されている。
不滅の霊魂が「仏」であるという誤解であり、これでは仏教ではない。
正しく把握し、実践してきたのは、仏すなわち真理を体得した祖師方のみである。
「即心是仏」の仏とは個々具体的な現実のなかで生きる仏。
『いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり』
「即心是仏」の心とはなにかといえば、心とは客観世界と同一のもの、客観世界のすべては心と同一のもの、ということ。

⇒意識は対象世界と切り離されては実在しない。
 いっぽう対象世界は個人の意識に映じられなければ実在しない。
 提唱録では次のように解説される。
 「いいかえれば主観と客観とは同時現成、同時消滅であり、
 主観と客観を切り離して、そのいずれかに重点を置く
 唯心論的乃至唯物論に対する仏教的な第三の立場を
 主張している<p273>」

この心を完全に認識体得したならば、世界は一変する。
しかもなおかつ、客観世界と同一の心とは客観世界そのものであって、さらに何かが付け加わるわけではない。
『しかあればすなはち、即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり』
心がそのまま仏である、ということの実質的な内容は、真理探究の心を起こし、修行し、真理を把握し、至福の境涯に達したもろもろの真理体得者を指すのである。
「発心修証」。真理を知りたいと願い、修行し、修行を体験すること。
(坐禅をすることは「発心修証」そのもの)
それが「即心是仏」が成立する必要十分条件である。
「即心是仏」を実践し示すのは真理体得者=仏であり、その仏は釈尊と同一の境地にある。



終了後は様々な話題が出ました。

正法眼蔵において「行い/修行」は常に重要であり難所では理解のための補助線となる。
坐禅の最中何をしているかといえば、自分の「存在」を感じている。
老師はやがて世界で仏教が絶対に必要になると言われたが、それは現在どうだろうか。
体系だった「釈尊の本当の教え」といったものを文献でたどることは原理的に不可能。
云々。

話題はイスラム国/IS、テロ、爆撃に及びます。

フランス語を学んでいるという参加者が、そのクラスでパリのテロ時の放送を聞いたときの話をして下さいました。
放送で、フランスでは自爆テロを意味する「カミカゼ」が連呼されていた。
ISの行いも、日本より少し狭いくらいという広大なその支配地を爆撃し続けることも、未来があるとは思えない。
ただ、思い起こすと終戦時小学校4年で竹やりを振っていた自分は、日本が負けるなどとまったく思っていなかった。神の国だと思っていたし、国のために死ぬのは当然だと思っていた。
「そこは同じですよ、だから」



次回は12月19日(土)
年内最後、次の「洗浄」の巻に入ります。
# by doutetsu | 2015-12-05 20:58 | 赤心会ゼミ録

11月、12月予定・サブテキスト・「『四諦論』批判」について

10月31日。45分の坐禅。
その後講義室で『即心是仏』の巻に入り、途中まで読み進みました。
当日の内容やディスカッションは別途掲載予定です。

11月は7日は幹事(ブロガー)が都合により欠席。テキスト講読はありませんでした。
第3土曜日21日は「東大仏青展」開催により坐禅室も講義室も使用できないため、赤心会の開催はありません。
12月は5日(土)と19日(土)の開催を予定しています。
5日はテキスト「現代語訳正法眼蔵第1巻」134ページ、
「かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり」
から読んでいきます。

■■

今回の『即心是仏』より、正法眼蔵の原文と西嶋老師の現代語訳を一文ずつ対比させ編集したサブテキストが配布されました。
「西嶋老師の思い出」を編集されたOさんの制作によるものです。
西嶋老師は生前、こうした取り組み-老師のテキストの編集-を希望されていました。
Oさんは「現代語訳 第1巻」のいくつかの巻で同様のサブテキストを完成されています。
今後、赤心会にご参加の方には適宜配布していく予定です。

■■

西嶋老師の「独自の四諦論解釈に基づく仏教/正法眼蔵の読み解き」には批判的見解もあります。
(「安泰寺禅僧対談」佼成出版90ページ)

これについては、赤心会においては、少なくとも私は次のように考えています。
正法眼蔵という、一人の歴史的人格によって記述された、言葉を超えた境地が言葉で言葉で語られているテキスト全体を、できるかぎりその「(内在)論理」に即して、安易な恣意に流れず読もうとするとき、西嶋老師の一定の原則に貫かれた現代語訳以上のものは現状、存在しない。
また、「唯心・唯物・行為・現実」の4つの観点は仏教≒世界と自己を把握する補助線として機能的であるはず。
さらにあえていえば、この「独自の四諦論解釈」は西嶋現代語訳テキスト群の持つ魅力のすべてではない。
まして坐禅を絶対条件とする西嶋老師の教えを語りつくすものでもはありません。

10月31日も少し話し合いましたが、これからも議論を深めていきたいと思います。
# by doutetsu | 2015-11-08 23:45 | 活動・連絡

重雲堂式 「いまこれを本源とせん」

10月3日(土)

45分の坐禅の後、講義室にて。
テキスト西嶋和夫著『現代語訳正法眼蔵 第一巻』
「五.重雲堂式」

(本巻の大意)より
「道元禅師が宋から帰朝されて後、最初に創建された山城の国字治の観音導利興聖護国寺における坐禅堂である重雲堂の式則すなわち規則である」
西嶋老師は提唱で『他の正法眼蔵と多少性格が違うが、道元禅師の考え方を理解するうえで貴重な巻』と言われました。
95巻本の正法眼蔵にしか編入されておらず、従い現在の岩波文庫版正法眼蔵には入っていません。

坐禅堂における規則を21条にわたって示しており、その内容は概略以下のとおり。
・名利の心のある者を入れてはならない。真実を知りたいと願う者を入れよ。
・坐禅堂内の衆僧は和合し、いさかいをおこしてはならず、規則を守らなければならい。他人の非や自分の是をあげつらってはならない。
・出歩かず、専一に坐禅をしなくてはならない。
・出入、招き入れ、その他すべて堂主に伝えその指示に従え。
・坐禅堂内では禅についてであっても文字を目にしてはならず、念誦看経、行道等は禁止、数珠も携えてはならないし、綾織物を着てはならない。
・鼻をかむ、声を出す、堂の近くで話をするなどしてはならない。酒に酔っていたり、にらやねぎの匂いをさせて入ってはならない。
・中国の叢林のしきたりに即して坐禅し参師聞法せよ。
・短い一生を安穏に無為の坐禅に生きたいと願うべきである。

基底にあるのは、、
「日本における僧堂の正しいありようはここから始まる」
「当時(においても)みられた、仏道を名誉と利得の具とすることを一切廃す」
「坐禅以外の仏教行事や威儀具足は無用」
との意思。
叢林/雲堂とは只管打坐が目的であり只管打坐を成立させるためだけに保持される場。

興聖寺の落成は1233年、僧堂完成は1237年、本巻は1239年の道元禅師39歳の年に示衆されている。

「おほよそ大千世界のなかに正嫡の付属まれなり。わがくにむかいしよりいまこれを本源とせん」
我が国においては、この興聖寺僧堂が正しい仏教伝統の源となるだろう。

道元禅師39歳の宣明であると、考えられます。
■■
今回から、Oさんが、正法眼蔵原文と老師の現代語訳を対照する資料を作ってくださいました。
英語の会ではすでに使われていますが、日本語の会でも今後この資料を配布いただく予定です。
お陰様で当会参加者の正法眼蔵の学習はいっそう取り組みやすいものになると思います。
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10月17日(土)は坐禅のみ。
10月31日(土)は次の「六.正法眼蔵 即心是仏」を読んでいきます。
# by doutetsu | 2015-10-04 13:14 | 赤心会ゼミ録

9月5日「一顆明珠」を読む

45分の坐禅。次いで講義室にて講読。幹事以下出席8名。
テキスト『西嶋和夫著 現代語訳正法眼蔵第1巻』
範囲は「四、正法眼蔵一顆明珠」の第1回目。P97からP105まで。
いつもと同じように西嶋老師の語注、現代語訳、提唱録に従って読んでいきました。

P97【本巻の大意】
「本巻は玄沙山宗一大師の言葉である「尽十方世界是一顆明珠」すなわち「全宇宙は一粒の輝やく珠である」を中心にして、道元禅師御自身のこの語に対する解釈並びに宇宙観を述べておられる。」

かつての提唱では、西嶋老師はこのように説明されいます。
われわがなにかひとつの囚われから解放されて、この世の中を自然に調和のとれた形で全体的に眺めることができるようになると、この世の中は実に素晴らしい世界。一切が非常に優れた形で調和が保たれている世界。それを玄沙禅師は‘一粒の真珠の玉’と表現され、その玄沙禅師を道元禅師は高く評価され解説されたのが本巻。

玄沙禅師の時代も、道元禅師の時代も、現在も、良いことばかりの世界ではない。不正も不幸も厳然とある。それをひっくるめて、この世界は一粒の輝かしい珠である、と実感し、言葉にされた。道元禅師もそれを肯った。

「尽十方世界是一顆明珠」とは、坐禅のときの境地である。

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中ほどの本文
『いま道取する盡十方世界是一顆明珠、はじめて玄沙にあり。
その宗旨は、盡十方世界は、廣大にあらず微小にあらず、方圓にあらず、中正にあらず、
活溌溌にあらず、露廻廻にあらず。
さらに、生死去來にあらざるゆゑに生死去來なり

その趣旨は、全宇宙は広大でもなければ、微小でもない、四角くもなければ、円くもない、真ん中だとか、正しいというのも当たらない。生気撥刺というのでもなければ、明々白々というのでもない。
〈要するにこのような概念的な形容では表現できない。〉
「生まれたり死んだりの日常生活」というような抽象的な言葉では形容できないものであればこそ、この宇宙は何かといえば、起きてご飯を食べて働いてということが実体。どろまみれになって働くことに他ならない。

『Aでないから、Aである』
『Bであるから、Bではない』

正法眼蔵によく出てくる、‘矛盾命題’です。

西嶋老師の解説は常に明快で、こうした際否定されるのは、概念/言葉としての、頭の中の仮のものに過ぎない「A」や「B」、ということになります。

■■

宇宙/世界はそのまま、それだけで「一顆明珠」なのでしょうか。
坐禅をする人間にとって、「一顆明珠」たりえるのでしょうか。

客観的世界と主観的世界。そのどちらも、それだけでは「現実」ではない。
これが西嶋老師に我々が教わった、「仏教的世界観」です。
どこまで行っても、「坐禅」に代表される自分自身の‘修行’によってしか、それは顕現しない。

今回読んだ範囲で、玄沙禅師の「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼(頭で理解して何になる)」の言葉を、おうむ返しにそのまま応答した学僧の態度を玄沙はただちに切って捨てています。
西嶋老師の導きに従って読めば、学人に求められるのは「自分ぎりの自分」の「活計」でなくてはならない、という感得にいたります。

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ディスカッションでは幹事が聴講した朝日カルチャーセンターの「仏教3.0を哲学する<鼎談>2」の論題を紹介し、その後「瑩山禅師における坐禅の上・中・下根」「瞑想と坐禅」「臨済宗の対面と、曹洞宗の面壁の坐禅」などについて懇談しました。

次回は9月19日(土)。『一顆明珠』の巻を終える予定です。
# by doutetsu | 2015-09-06 22:00 | 活動・連絡

2015年洞慶院坐禅会実施

今年のドーゲンサンガの坐禅会は4年ぶりに静岡県羽鳥の「久住山 洞慶院」で開催することができました。
8月29日、30日の1泊2日、参加者は16名でした。

多年にわたりお世話になったご住職の丹羽鐡山老師は昨年遷化されました。
現ご住職の丹羽義雄老師が入山されるまで、現在、丹羽崇元老師が監寺和尚としてお寺をまもっておられます。

我々にとって久しぶりの洞慶院は要所要所が補修され、新しくなり、一層「居心地」の良い環境となっていました。
1泊2日の間に以前の差定どおり7炷(7回)の坐禅を行い、懐かしい雲堂で、ひぐらしや時折激しい雨の音を聴きながらじっくり坐ることができました。
懇談会では西嶋愚道和夫老師の追悼文集が配布され、各地のサンガの活動や参加者の取り組み、感想など和やかな中にも活発な懇話が行われました。

以下に簡単な収支報告を付記します。

【収入】
会費        176,000円
ご寄付HS様    10,000円
<計>       186,000円
【支出】
お寺へ(食費他) 138,000円
蒲団代        17,000円
写真現像郵送     6,000円
発送雑品茶菓等   15,570円
<計>        176,570円 
【残高】         9,430円

残額は赤心会会計に繰り入れさせていただきます。
# by doutetsu | 2015-08-30 20:17 | 活動・連絡

7月18日「現成公案」 夏季休館へ

7月18日、夏休み前の最後の回で「現成公案」の巻を読み終えました。

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テキスト(西嶋和夫著『現代語訳正法眼蔵第1巻』)83ページ。
「三.正法眼蔵 現成公案」
本巻の大意より
「<略>現成公案とは行為に関連して現実世界にいきいきと躍動する宇宙秩序のことをいい、本巻は道元禅師の御立場からこの宇宙秩序を極めて端的に叙述されている」

本巻も非常に有名な巻であり、注・解説が多く行われている。
例えば「南直哉『正法眼蔵を読む』2008講談社」では「本書においては「現成公案」を中心に読む(p22)」としている。


西嶋老師は、この巻を独自の「四諦=仏教的弁証法」の視点で「明快に」読み解かれている。この巻において特に冒頭の4文にその観点が打ち出されているとされる。

「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
 【主観的/観念論的】
「万法われにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
 【客観的/唯物論的
「仏道もとより豊倹より跳越せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生(衆生)仏(諸仏)あり。
【行為論的】
「しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜に散り、艸は棄嫌に生ふるのみなり。
【現実】

余談だが、当ブロガーにはたいへん難解と思える南直哉著『正法眼蔵を読む』において、
「自他二元論の無効」「行いによる自己と世界の同時生成」「修行こそが現実性を保証する」
といった説明があり、これは西嶋老師の教えとおおいに重なる部分があるように思える。
複数テキストの表面的な類似が妥当性を根拠づけるものとはならないとしても、「正法眼蔵」に
「二元論の超越/行為の重視/修行がすべて(根拠・目標・当為・基準)である」
といった主張があることは間違いないように思われる。

■■

巻中には他にも美しく力強い、心に残る文章・フレーズが多い。

「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」
「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり」
「人の悟をうる、水に月のやどるがごとし、月ぬれず、水やぶれず」

我々が心身をあげて対象を見、聞きしても「かがみにかげをやどすごとくにあらず、水と月のごとくにあらず」とある。
魚川祐司氏が翻訳されたウ・ジョーティカ『自由への道』にも、世界をありのままに受けとめることは、恣意や無意識的選択がなくすべてを鏡にものがうつるように受け取ること、と説かれていた。

「人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり」
これについてかつて西嶋老師が
「仏道を実践し体験するということは、ひとつの行いに会いそれをやっていくだけだということです」
と解説されたことが強く印象に残っている。

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東大仏青の夏季休館のため、次回は9月5日からとなります。
テキスト97頁「四.正法眼蔵 一顆明珠」を予定しています。
# by doutetsu | 2015-08-11 16:12 | 赤心会ゼミ録

5月30日「弁道話」第14問答から17問答

45分間の坐禅のあと、「弁道話」の続き。
P52第14問答からP61第17問答までを、西嶋老師の提唱記録に従って読みました。



第14問答のテーマは「出家と在家」。
出家者と違って在俗のものは諸事に追われて修行に集中できず仏道にかなうことはできないのではないか、という問いを置いて、
皇帝、大臣から猟者樵翁(きこり)まで道を求め坐禅をすることで仏道の真実を得た、という例をあげ、
「ただこれこころざしのあるなしによるべし、身の在家出家にかかわらず」
やるきがすべてである、と道元禅師は出家優位を否定されます。
世間の仕事が仏法の妨げになると思う者は
「ただ世中に仏法なしとのみしりて、仏中に世法なきことをいまだしらざるなり」
一般世俗名利の世界に釈尊の教えはない、と知っていても、釈尊の教えの中にことさらな「世法」などはないということを知らないのである。
日常生活はひとつでしかない。
社会生活と仏道とか色分け、レッテルを貼ることは誤り。
西嶋老師は提唱で次のように説かれました。
『ただ一個の人間が、朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、勤めに行くということ、そのものが仏道修行である』

第15問答は「末法思想」。
釈尊入滅から正法、像法、末法という時代区分でいうと末法、すなわち「悪世」にあたるこの時代に、坐禅をして真実を得ることができるのか、という問いに対し、
「大乗実教には、正、像、末法をわくことなし」と末法思想を(方便としてすら)否定し、
「証の得否は、修せんものおのづからしらん」
坐禅をすれば自ずとそれに即した体験がある、と。

第16問答は、「『即身是仏』についての誤解」をめぐる問答。
「『即身是仏-現在の自分の心が仏そのもであるということ』を理解すれば完全な得道であってもはや修行はいらないという人がいるが」と問いを置き、
「このことばもともはかなし」と全否定される。
「もしなんぢがいふごとくならば、こころあらんもの、たれかこのむねををしへんに、しることなからん」
もしお前がいうようなことなら、およそ理解する心がある者に教えて認識できないということがあろうか。
法眼禅師と則公監院の「丙丁童子来求火」の妙則(すぐれた説話)が引用されます。
丙/ひのえ/火の兄、丁/ひのと/火の弟。
火そのものである子供が火を求めてやってきた。
教えを求め学んでいる自分自身とは何者でしょうか、と先の師匠である青峰禅師に問い、
「丙丁童子来求火」との語を得て安楽を得た、と思っている則公。
この言葉を「自己をもって自己を求める」すなわち「本来仏である自分のあり方」と概念的に理解して満足していた弟子の則公に、法眼禅師は「お前はわかっていない」と告げます。
則公は再度「いかなるかこれ学人の自己なる」と問い、法眼禅師がまったく同じ言葉を投げかけることで開明させたエピソード。
頭の中で「自分はそのまま仏だ」と思っていることと、自も他もなく、身心を賭けて真実を知ることを願う状態はまったく異なる。
その瞬間に投げ打つ行い。投企。生き生きとした邁進。

第17問答は「何かの機縁で瞬時に悟道したと祖師の事跡」に関して。
掃除のおりに払った瓦礫が竹に当たる音を聞いて大吾した香厳智閑禅師。
山の中腹から爛漫と乱れ咲く桃の花を見て悟道した霊雲志勤禅師。
そうした祖師がたが「かならずしもかつて坐禅弁道せるもののみならんや」と問いを置いたうえで、
「古今に見色明心し、聞声悟道せし当人、ともに弁道に疑義量なく直下に第二人なきことをしるべし」と教示する。
その瞬間を迎え得たのも坐禅修行あってのことである。
釈尊の教えを求めるにあたっては、頭の中で考えることに頼らず思惟にわずらわされず、今現在の瞬間、ふたつに分かれて迷う自己のない状態であればこそと知るべき。
自分の修行に疑問を持たず、自分が分裂していない、バランスした状態。
坐禅の境地に他ならない、と西嶋老師は提唱されます。

〇〇

さいごに西嶋老師にこの段をご提唱いただいたのは2004年の夏、静岡の洞慶院でした。
「仏中に世法なきことをしらざるなり」
「丙丁童子来求火」
これらを上述のようにご解説いただいたときの、世界が広がるような、胸のすくような感覚が、今もよみがえります。

〇〇〇
次回は来週6月5日(土)。この回で弁道話の巻を終わる予定です。
# by doutetsu | 2015-05-31 17:49 | 赤心会ゼミ録

5月16日の坐禅・購読(日本語の会)はありません。

5月16日の坐禅・購読(日本語の会)はありません。
会員より同日開催の東大仏青主催「五月祭講演会」聴講の希望があったため、講演会聴講に振り替えることになりました。

※以下仏青HPより引用します。
http://todaibussei.or.jp/
講 師: 田口 ランディ 先生(作家)
演 題: 「幸せ」のために仏教ができること
日 時: 平成27年5月16日(土)14:00~16:00
会 場: 東京大学本郷キャンパス工学部1号館15教室

次回の坐禅と購読は5月30日(土)14:30より、
購読は「正法眼蔵 弁道話」第十四問答から、となります。
# by doutetsu | 2015-05-15 11:11 | 活動・連絡

2015年5月2日講読「正法眼蔵 弁道話」

坐禅の後講義室にて、「正法眼蔵」講読 8名。
範囲はテキスト「現代語訳正法眼蔵第1巻」44ページから52ページまで。
「弁道話」のいわゆる18問答の第8問答から第13問答まで。
中で長文なのが想定問答の10番目にあたる、「心性常住」すなわち霊魂不滅の説に対する批判の節。
■■
あるひとがいわく、霊魂は不滅であって、肉体が滅んでも魂の世界に入っていくのだから、生き死にを嘆く必要はない、と。これは釈尊以来の諸祖の教えにかなうことか。
「しめしていはく、いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼外道の見なり」
教示していう。それは仏教的世界観とはまったく異なる、唯心論者Senika等の非仏教徒の見解である。
「しるべし、仏道はもとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる」

「常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心をわくことなし。
寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし」
不滅とみれば実在するものはすべてかたちを変えながら存続して不滅であるといえる。
変化するとみれば、心は瞬間瞬間に変わるし、本質といおうと外形といおうと不変のものはない。
「生死はすでに涅槃なりと覚了すべし」
この生き死にの世界こそが至福の境涯であると了解せよ。
「仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし」
大乗起信論にある‘心真如即一法界大総相法門体’とは、この世の中の一切が心であり魂であるという見方であるが、そこにおいて本質と形相を区別することはなく、必滅・不滅を主張することもない。
■■
講読後のディスカッションでは大乗仏教の根本とされる「身心一如」と、上座部仏教では前提とされる「輪廻」について話が出た。

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# by doutetsu | 2015-05-10 16:35 | 赤心会ゼミ録

本日の範囲

GW最中ではありますが、予定通り、14時半より坐禅、その後「正法眼蔵」講読を行います。
テキストは「現代語訳正法眼蔵第1巻。」
講読範囲は、44ページ(第八問答)から52ページ(大十三問答)を予定します。
# by doutetsu | 2015-05-02 09:52 | 活動・連絡