明日9月17日の活動予定

明日9月17日は通常通り活動します。

14時半より坐禅室で坐禅(1回)
その後、講義室で「正法眼蔵」購読
17時終了予定です。

購読のテキストは
西嶋和夫著『現代語訳正法眼蔵 第2巻』
「袈裟功徳」の巻の途中(テキスト86頁)から
になります。
貸出用テキスト/サブテキストあり。

なお、「袈裟功徳」については、西嶋老師の
提唱録音を聞きながら読んでいきます。

10月1日は幹事都合により、購読はお休み
とさせていただいます。
# by doutetsu | 2016-09-16 14:07 | 活動・連絡

今後の予定(30日ナシ/9月予定/追善坐禅会)

7月30日(土)の第5土曜日は、会員協議の上休会としました。
8月は東大仏青が夏季休館となるため、次回の「坐禅と正法眼蔵研究会の開催は、9月以降の第1、第3土曜日となります。

なお、9月3日(土)、4日(日)は「西嶋老師追善坐禅会/お墓参り」を予定しています。
9月3日(土)は通常の坐禅・購読は行いません。午前中から坐禅をはじめ、午後は坐禅、法要、懇談会の予定です。
※参加要領については個別に連絡しておりますので、何かあれば当ブロガーにメールにてご連絡ください。

9月17日(土)は従来通りの開催。
14:30から45分間の坐禅、その後「正法眼蔵 袈裟功徳」提唱(音声)聴講。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳 正法眼蔵 第2巻」。86ページの、前節で引用した悲華経(袈裟の「五聖功徳」)への道元禅師の解説から、になります。
# by doutetsu | 2016-07-30 00:03 | 活動・連絡

正法眼蔵と輪廻 西嶋老師は


「袈裟功徳」の提唱録に残された質疑応答で、「中有」という用語の使い方が、他の巻で読み取れる‘生まれ変わりの否定’と矛盾している、というやりとりに関連して。
7月16日の提唱(音声)聴講後のディスカッションの際、「仏教思想のゼロポイント」の著者である魚川祐司氏の「『ブッダは輪廻を説かなかった‘はずだ’』論批判」を振りかえりました。(ニー仏(魚川祐司)「だから仏教は面白い」から)

いわく。
輪廻否定派の言説の例に、『仏教では「無常・苦・無我」を謳う。無我なのに何が輪廻するのか』というものがあるが、無我と輪廻は矛盾しない。
無常:現象世界はすべて‘縁生’であり、因縁によって変転し続ける。
苦:すべて変転する以上、満足状態にとどまることは不可能。
「苦=不満足」の繰り返しになる。
無我:変転極まりない現象世界で‘常一主宰’の我は存在しない。

不変の主体が生まれ変わることが輪廻ではない。すべてが変転していく(輪廻する)中のある部分を切り取って、‘ある個人の一生’とみなすことができるに過ぎない。
ということのようです。

加えて、インド思想における「業」の概念。
インド思想において人間の行い=「業」は必ずあとあとに影響する。潜勢力を持つ。
これは西嶋老師が「仏教は行いを中心とする教えである」と説かれる際の説明とも共通します。
魚川氏は著書で、(西嶋老師も著作を読んだと言われた)木村泰賢博士の輪廻の説明を提示します。その概略は..。

Aという個人が死んでもその人間が人生の瞬間瞬間(A1、A2、A3・・・An)に行った「行い」は必ず影響を残す。
その影響aは‘次の’生存者であるBに及び、そのときBの生涯はaB1からスタートする。
Bmで死んだBの業はCの(初期)設定に影響し、すなわちbC1となる。
以後繰り返し。
これが輪廻だ、と。
はたして腑に落ちるか、という話になりました。

***

「私の生涯」は現象世界に生起するなにごとかの部分に過ぎない。
たしかに。
一方で、今ここにいある「私」の実存の実感はかけがいがない。

***

関連して思いだす西嶋老師の言葉をいくつか。
「ないです。死ねば永遠の休息があるだけ」(「死後の世界はあるか」と聞かれて)
「断見≒唯物論も外道、常見≒観念論も外道」
「我々ひとりひとりの行いは宇宙の歴史に永遠に刻まれる」

‘私の’死後はあるか、と聞かれれば、「わからない/ゼロ回答」というのが妥当解とされるけれども、「無い」という言明のほうがより‘正しい’、というお考えだったのでしょうか。
# by doutetsu | 2016-07-29 23:58 | 活動・連絡

7月16日 正法眼蔵「袈裟功徳」

7月16日(土)坐禅の後、講義室で前回に続き西嶋老師の提唱音声を聴講。

テキストは『西嶋和夫著 現代語訳 正法眼蔵 第2巻』
「12.袈裟功徳」の4回目。「袈裟功徳」はテキストでは76ページ、29節に分けて掲載されている長大な巻です。

巻頭49ページ<本巻の大意>より。
『本巻においてはその袈裟の中、第二十八祖の達磨大師が印度から支那に伝えられたものこそ、正統の袈裟であることを主張され、その袈裟の効用、かけ方、洗濯の方法について述べられている』
1979年2月の提唱で西嶋老師はこう述べられています。
『普通『正法眼蔵』の提唱をやる場合こういう宗教的な伝統に関係した巻はやらない。(略)「現成公案」であるとか、「諸悪莫作」であるとか、やりがいのある、哲学的に難しそうな、おもしろそうなのだけがやられる。ただ『正法眼蔵』というのは、こういう「袈裟功徳」のようなそう理論的でない、そう哲学的でない巻も読まないと全体の意味がとれない、というふうに私は感ずる。だからこういう巻も抜かさずにやるということになる』
そういう巻ですので、西嶋老師の提唱をそのまま聴講することにして、進めています。

***

16日は78ページの「袈裟を浣う法」からはじめ、80ページの悲華経巻八「諸菩薩本授記品」からの長い引用(袈裟の5つの優れた効用)まで老師音声を聴講しました。

**

この部分が納められた提唱記録に(提唱録2巻上P232)、「袈裟功徳」の巻に出てくる「中有」と言う言葉についての質疑応答が記載されています。
語註に「中有=意識を持つ生きものが、死の瞬間から次の世に生を受けるまでの中間の時期」とあるが、「現成公案」の巻の「薪は灰となる、灰は薪とならない」といった解説と矛盾があるのではないか、というものでした。
道元禅師は(正法眼蔵は)輪廻があるということを肯定していたのか否か、という疑問であったと思われます。
この点についてのディスカッションはま別項で。
# by doutetsu | 2016-07-29 23:09 | 活動・連絡

6月4日「袈裟功徳」

45分間の坐禅の後、「袈裟功徳」1回目。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳 正法眼蔵 第二巻」

今回、試みに西嶋老師のこの巻の提唱の音声を通しで聞くことにしました。
ちなみに袈裟功徳は「道元禅師と仏道下巻巻末リスト」では
『集諦のグループ-「伝統」-滅』
すなわち、
客観的事物をとりあげ、仏教伝統の、現実を説く、巻
と位置づけられています。

提唱(録音)冒頭の老師の本巻の解説より
『仏道においてはそういう心とか物とかいうものを二つに分けること自体が現実を見損なう、われわれが住んでいる世界と言うのは物だけでもない、心だけでもない、そういうものが二つに分かれない以前の一つの非常にはっきりした実体がある/
仏教というのは形式も重んじるし、中身も重んじる。形式と中身が一体になったものが法だから/
そういうことの一つの現れが袈裟にも現れてきている/
だから外側を大切にすることによって中身を大切にすることにもなるし、中身を大切にするということは、外側を大切にすることでもある。そういう趣旨から書かれた巻の一つがこの「袈裟功徳」の巻ということになろうかと思う』



テキストp58まで、進みました。
テキストでは29節におよぶ長い巻の3節まで。

お袈裟さは釈尊以来、代々祖師方に伝えられた尊いものである。
無数の仏が受持し、その功徳を学んてこられた。
「たとひ自己なりとも、たふとぶべし」
だから自分がお袈裟をかけたならば、仮にそれが自分自身であろうともお袈裟をかけたというだけで尊敬に値するものになる。
中国に仏教が伝わって以来、多数の者がインドと中国を往還したけれども、サンスクリットの経本を伝来することはあっても、仏教の奥深い所は釈尊以来の正当な伝承者である祖師を通じてのみ伝わった。
「浣洗の法、および受持の法、その嫡嫡面授の堂奥に参学せざれば、しらざるところなり」

■■

次回は6月18日(土)、P60「大乗義章」引用部より。
# by doutetsu | 2016-06-05 16:04 | 赤心会ゼミ録

5月21日「有時」の巻 読了

45分の坐禅の後、「有時」の巻2回目。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳 正法眼蔵 第二巻」

冒頭で西嶋老師が1978年12月28日にこの巻を提唱されたときの冒頭の音声を再生し、皆で聞きました。
老師のなつかしい朗々たる声が響きます。
計算すると59才になったばかりの頃ですが、とてもそうは思えないほど老成し、確信に満ち、説得力のある、まさに「老師」のお声でした。

『「有時」というのは「あるとき」。<略>われわれの人生というのは何かというと、こういう-行いと関連した-「あるとき」という時間の連続です』
時間を過去、現在、未来と続く一本の線のように考えると、抽象的には理解されるがわれわれの人生における本当の時間とは別のものになってしまう。時間・存在・行為について、実存主義など20世紀の哲学でも語られるような高度な思想を、釈尊の教えそのものとして道元禅師は説かれた。
難しい巻であるけれども、一つにはわれわれの常識的な考え方とちょっと向きが違うから。
われわれはなぜ坐禅をするか。
『坐禅をやることによって従来の考え方とは違う、本当の意味での人生というものをとらえるような考え方に移っていくということがあるわけです』
■■
テキストP30
「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」
時間とは抽象的に空に存在するものではない。何らかのことが行われている、何らかのものがあるという事実と関連してのみ時間は存在する。また時間と関係ない存在はない。「ある」ということは時間と関係してだけある。
P31
「正当恁麼時のみなるがゆえに、有時みな尽時なり、有艸有象ともに時なり」
時間とは今この瞬間しかない。瞬間、瞬間の時間が一切の時間にほかならない。かつ、存在する事物も現象も時間においてある。
P38
「おほよそ羅篭とどまらず、有時現成なり」
人生を束縛する煩いは限りがない。それらもすべて現実の時間、瞬間においてある。
「いま右界に現成し、左方に現成する天王天衆、いまもわが尽力する有時なり」
あるいは右に、あるいは左に出現してわれわれを守護してくれる天王や天使も、われわれ自身が常にベストを尽くしている現実の時間があればこそ出現する。
日常生活のわずらわしいことをコツコツしのいでいくのが人生。思い通りにならない人生の中でも、ふと恵まれている、何かに助けられていると感じることがあるが、それは人間が現在の瞬間を生きているから。

提唱録を読むと「有時」の巻の終わり近く、西嶋老師はこう話されました。
『いいとか悪いとかいってみても、そんなことより大事なのは自分自身が一生懸命生きているかどうかということ。
『仏道がなぜ必要かといえば、そういう点で自分の人生というものが持っておる意味というものをつかむということがある。それは偉いとか偉くないとかいう問題を乗り越えた、自分の生命というものの瞬間、瞬間の現れに気がつくかつかないかということに尽きる』
■■■
以下は、2回にわたる「有時」の読み取り後のディスカッションでの発言です。
「現代の科学や思想を釈尊や道元禅師が先取りしていたように見えることはある。いっぽうその‘先進性’を教えの正しさに援用するのは贔屓の引き倒し」
「実数の時間軸と虚数の空間軸からなる複素数平面における(瞬間×存在)の連続が生命ではないか」
「時間が瞬間にして永遠とは、長さを持たない点の無限の集合が線分になるようなことか」
「正法眼蔵は各巻ごとに、思想・教え説いた巻(仏)、宇宙・世界を説いた巻(法)、生活・戒律を説いた巻(僧)という力点があるように思える」
「西嶋老師は全95巻を苦・集・滅・道で分類されていた(道元禅師と仏道下巻)」

などなど。
# by doutetsu | 2016-06-05 15:03 | 赤心会ゼミ録

5月の予定

ご案内を怠り申し訳ありません。
(4月16日、23日は幹事都合により正法眼蔵の講読/共読は休止しました)

5月の予定は
5月7日(土)、21日(土)
14:30より45分坐禅、その後「正法眼蔵」を西嶋老師の読解に即して読んでいきます。

本日7日は「11.正法眼蔵有時」
テキスト:西嶋和夫著「現代語訳正法眼蔵 第2巻」
※貸出あり
※有志による、サブテキストあり
# by doutetsu | 2016-05-07 08:49

3月19日予定

本日3月19日は、通常通り
14:30から坐禅室で坐禅
その後講義室で「正法眼蔵」の講読を行います。
範囲は「正法眼蔵 諸悪莫作」の最初から、となります。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳 正法眼蔵 第2巻」
(配布用対訳資料あり)
# by doutetsu | 2016-03-19 10:13 | 活動・連絡

『礼拝得髄』後半 75巻本からは削除された「女人禁制」批判

2月6日
45分間の坐禅ののち「八.礼拝得髄」後半。

この巻で道元禅師は、
真実を得たものであれば誰であってもその得道、得髄に礼拝すべきである。
女性だからといって軽んずるのは全く誤りである、と説かれます。
188ページ「また和漢の古今に帝位にして女人あり」から。
皇帝になった女性が国土を所領し、人々が臣下となるのは、皇帝の位を尊ぶから。
比丘尼を敬うことも僧侶として釈尊の教えをはっきりつかんだときに敬うのである。
「またいま至愚のはなはだしき人おもふことは、女流は貪婬所対の境界にてありとおもふこころをあらためずして、これをみる」
女性は欲望の対象とであるからこれを忌み嫌う、というのは愚のきわみ。
そんなことを言うなら「一切男子もまたいむべきか」
男だろうと女だろうと幻だろうと、あらゆるものが情欲の対象・機縁になる。
「これみなすつべきか、みるべからざるか」
「おほよそ境をみてはあきらむることをならふべし、
何にかぎらず、何かにぶちあたったら逃げずにそれが何なのか学ばなくてはならない。

「日本国にひとつのわらひごとあり」
巻の終盤で、に道元禅師は「女人禁制の結界」を、女性というだけで排除するのは全く的外れなものと批判します。
権威が決めたことだから、古くからのしきたりだから、などという説明は
「わらはば人の腸(はらわた)もたえぬべし」

つまるところ
「一切衆生みな化をこうぶらん功徳を、礼拝恭敬すべし」
西嶋老師は解説されます。
釈尊はすべての人々を救おうと教化された。あれは救うけれどもこれは救わない、ということではない。
誰でも釈尊の教化を受けうるということ、そのことを敬うべきである。

なお、この日読んだ本巻の後半は現在の岩波文庫ではこのように説明されています。
「以下は75巻の正法眼蔵には諸本いずれも欠き、ただ永平寺に伝わる秘密正法眼蔵の中だけに残ったものである。恐らく、75巻の正法眼蔵が整理された時、削られたものであろう」
なにか不都合があったのでしょうか。

次回、2月20日は「九.正法眼蔵 渓声山色」に入ります。
# by doutetsu | 2016-02-11 23:08 | 赤心会ゼミ録

『礼拝得髄』 真実の前の平等/男尊女卑を嗤う

1月16日、今年最初の赤心会は、坐禅ののち「礼拝得髄」の講読。(テキスト「現代語訳正法眼蔵」169ページ)
この巻の題名自体は達磨大師と慧可大師の故事から(景徳伝灯録)採ったとされます。
すなわち、達磨大師が4人の弟子に各々その会得したところを問い、最後に慧可大師がただ礼拝して立ちつくしたところ達磨大師が「汝わが髄を得たり」と肯定したというエピソード。

過去の西嶋老師の提唱によれば大意は以下のとおりです。
「礼拝得髄」はそのまま読めば、得髄を礼拝するということ。得髄というのは髄を得た、真髄を得たということ。真髄を得た人のことを得髄という。真実を得た人であれば、子供であろうと女性であろうと、動物であろうと真実を得ているというそのことのために礼拝し、教えを聴くべきである、ということを説いた巻。

道元禅師は次のように語り起こします。
最高で均衡のとれた教えを実践する際には
「導師をうること、もともかたし。その導師は
男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。
古今人にあらず、野狐精にして善知識なるべし」
真の指導者には男も女もなく、時代も関係ない。
自分をコントロールし自由自在に動ける。ユーモラスでもあり厳しくもあってひとつのレッテルで割り切れない。よくわからないすごみがあって、しかも人を十分教える力を持っている。
そういう師である。
そしてそれは
「汝我渠(なんじ、われ、かれ)なるべし」
あなた方自身であり、自分自身であり、あの人でもある。

以下、真実を説く師に出会ったなら、性別、身分、年齢、そして過去の行いの是非すら気にしてはならず、ただ礼拝問法すべきことが繰り返し説かれます。
力ある男子僧侶が礼拝した真実を得た師の例として、末山尼、妙信尼ふたりの尼僧にまつわる話をひいて解説される。
(妙信尼が、教えを乞う17人の僧に「前においで」と呼び寄せ、近づいてきたその瞬間、真実の教えをぶつけたくだりは西嶋老師の解説によって鮮やかに解き明かされる。提唱録1巻下p112)
出家をしていない、夫婦生活を営み、世間の苦労にまみれている居士であっても真実を得た者には僧侶があつまって教えを乞うのが当然。
「たとひ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず、うやまふべからず」
と断じ、この仏道のしきたりを伝えられていなものはあわれむべきである、と言われる。
道元禅師40歳の信念が熱く述べられた巻といえます。
以上この日はテキスト187ページまで。
75巻本の礼拝得髄の巻には、ここまでしか採録されていない。秘密正法眼蔵28巻には後半部分もあり、95巻本にはその全体が編入されています。
この後半は女人禁制の結界というもの、そのしきたりを徹底的に否定し、あざ笑う記述となっています。
■■
懇談では「7歳であっても真実を得た導師であれば礼拝を、ということだが、さてその人が真実を得た人かどうか、どうやってわかるのだろうか」という話になりました。
この巻はそれについては語っていません。
少なくとも教員免許のように役所かなにかが定めた基準があるようなものではない。真剣に求める人しか、修行しているときにしか、そしてその人にとって、でしか出会えないもののではないか。などなど。
道元禅師も西嶋老師も、生きて出会った宗匠で師と仰いだ方はひとりくらいしかいない。
この巻の主眼は、「礼拝するか否かは真実を得たかどうかだけで決まる。世俗の地位はもちろん宗門の階梯(管長だの大僧正だの)は無関係。いわんや性別になんの差があろうか」その主張ではないかと思われます。
道元禅師の主張は現代にあってなお先鋭的といえます。
■■■
次回、講読は2月6日(土)。礼拝得髄の後半、188ページからになります。
# by doutetsu | 2016-01-18 23:50 | 赤心会ゼミ録