「神通」の巻終わり われ常にここにおいて切なり

5月6日東大仏青赤心会。4回に分けて読んできた正法眼蔵神通の巻を終えた。仏の神秘的な能力とは人間の日常の行いを意味する。その教えの最終的な解説。
『その六神通は、六入を無迹にあきらむるなり』 六入(ろくじゅ)とは眼耳鼻舌身意の感覚器官または色声香味触法の感覚の対象。それらをありのままにとらえ、動揺しないことである、と。
「一切有無の諸法(形あるもの無いもの、価値のあるもの無いものの一切の実在)」をありのまま受け止め、貪らないこと。貪らないことは汚さないということ。またそれを別の言葉でいえば、ごくあたりまえの心である。
『不貪染は不染汙(ふぜんな)なり。不染汙といふは平常心なり。吾常に此(ここ)に於いて切なり』
西嶋老師は提唱録で【自分はいつでも現在の瞬間において一所懸命であるということが「平常心」であり「不染汙」である。だから平常心といっても、いつものんびりと落ち着いているということではない】と解説されている。

身の回りのものや出来事に動揺してしまう私たち。「動揺せず、平常心で、真剣な瞬間」というのは考えると難しい。
ただ坐禅をすると「動揺せず平常でかつ真剣な瞬間」を実感することができる。
「神通」の実感もまた、坐禅の実践によって得られるものだった。
# by doutetsu | 2006-05-07 10:02 | 赤心会ゼミ録

神秘とは、単純な日々の生活

東京大学仏教青年会の新年度が始まり、会員の自主団体である赤心会の新年度最初の集まりが4月16日に行われた。
45分の坐禅のあと、正法眼蔵の講読は引き続き、「神通」の巻。西嶋老師の現代語訳テキスト201ページから。
釈尊はさまざまな超能力を持っていたとされ、また歴代の祖師も神秘的な力を発揮したとされる、そうした力を神通という。いわゆる神通力の神通。この巻で、大きな見地から見た「神通」-神秘的な働きとは、具体的な日常の生活おいてなさねばならない平凡な行為を、的確に滞りなく行うことであるという趣旨が説かれている(183頁本巻の大意)
「朝打三千なり、暮打八百なるを為体(ていたらく)となす」朝夕の日常の行いをとらわれなくきちんとすることが、最上の神秘的働きである、とされる。
さまざまな行為を重ねて生きているが、ひとつひとつをとらわれなく行うことは難しい。
沢木興道老師は、「せんなんらんことはせんならん。せんでいいことは、せんでいい」とおっしゃった。これが、また、むつかしいのだ。
# by doutetsu | 2006-04-16 23:28 | 赤心会ゼミ録

楽しく、きちんと、生きて、死にたい

私が、仏教の教えに助けれられながら、生きていくうえで願っていることを一言で言うと、こうなると思う。
仏教は実在論であり、実在する世界を肯定するものであり、因果関係を信じ、来世や輪廻を信じず、日常の行いを重視し、とらわれのない生き方を最上とする。
生まれたとたんに死へ向けた時間が始まる人生において、苦は避けられない。しかし自らと他の人間の存在を肯定しなければ生きられない。
楽しく、きちんと、生きて、死ぬ。
この人間にとっての唯一最上の可能なあり方を、仏教は目指させてくれる。
# by doutetsu | 2006-04-16 23:11

我行う、ゆえに宇宙あり。西嶋老師会見

ドーゲンサンガから高島平に移られた西嶋老師をお訪ねした。
日本語訳、英語訳の改訂を終わったばかりの「中論」や仏教思想について久しぶりにお話を聞いた。
『デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。唯物論は「我感じる、ゆえに宇宙あり」の思想。仏教は「我行う、ゆえに宇宙あり」という教えだ。』
『仏教は「現実」を楽しむための思想』
『理論中心の欧米の思想と、行い中心の仏教思想とがひとつになると、それが最終思想になる』
今月末に87歳になられる西嶋先生の元気なお声と教えを聞けて、ありがたかった。
「死後の世界」や「この世の始まり」といった原理的に回答不能な問いに対して、釈尊は返事をしなかった。生きるために生きることしかできない人間に、楽しんで生きる方法を提示するのが仏陀の教えということだろう。
数日間坐禅をしていない。愚行が増えた原因はそれか、と反省。
# by doutetsu | 2005-11-26 19:02 | 西島老師について

5月7日22巻「仏性」第3回

仏性についての道元禅師の様々な解説が進む。今回のポイントを復習します。
■現代語訳31ページ。第7節目
中国の第六祖大鑑慧能禅師が五祖大満弘忍禅師をはじめて訪ねたときの会話
五祖「どこから来た」
六祖「五嶺の南から来ました」
五祖「なにをもとめてきた」
六祖「仏になろうときました」
五祖「南方の人間に仏性はない。どうやって仏になる」
■この対話の解説が次の32ページ、第8節。
五祖の最後のことば、「嶺南人無仏性」は「嶺南人に仏性がない」とも「ある」ともいわずただ「嶺南人無仏性」と言っている。
これは、あなたは「仏性」というコトバでとらえられない、「仏性」と呼ぶのももったいない尊いなにかをすでに備えている、ということだという。そうして、キーワードとなるのは4行目。
「仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり
ほとけの状態になったときにはじめてほとけとしての性質が同時にあらわれる。
仏性がなんであるか、またひとつ解説が行われていることになる。
■次の9節は、7節の五祖の最後の発言に対する六祖の答を挙げる。
六祖はいう「人有南北なりとも、仏性無南北なり」
道元禅師はこの言葉には、「人は修行をして仏になることはあるけれど、仏性と言う人間が本来持っている性質は仏道修行と関係なく常に備わっている」という概念が含まれている。それを六祖はわかっているのか、と言う。「悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん」これは難しい。本巻冒頭の釈尊の語、一切衆生悉有仏性 の「有」は、あるとかないとかいう相対関係を超えた絶対の無と同じものでないことがあろうか、と西嶋先生は解釈する。
そして次に、道元禅師はさきほどの六祖のことばの意味を「人間には物質的実在なので南北の区別があるが、仏性は空虚にして融通無碍なものだから南も北もありません」と切り返したのだ、と取るのは「無分の愚蒙なるべし」と断言する。
仏性はかたちのない、霊的なもの、と取っては誤りらしい。
■10節は引き続き伝燈録からの六祖発言の引用。「無常者即仏性也」
仏性は変転常ないものである。では有常=変化しないのはわれわれの日常の善悪の判断、分別の心である、という。変化をするのが仏性。人間の生活はどうにでも変わる。ある意味それが尊い。固定的な尺度、分別的理性に拘束されることは仏性ではないのだ。
者小量身也、者小量作也」 仏性=ほとけとしての性質とは、ちっぽけな体で一生懸命生きていく、日常生活の動作そのものである。
そしてまた言う。草も木も、人も物もからだも心も、山も河も無常=変転きわまりないものであるのは、それが仏性だからなのだ、と。
# by doutetsu | 2005-06-06 00:19 | 赤心会ゼミ録

4月30日「仏性」2回:それは名づけようのない本質。

連休のなか日。私を入れて7人が集まり、45分の坐禅のあと、講義室に移った。
■22巻「仏性」第4節から。
12祖(釈尊の初代後継者から数えて12代目)の馬鳴尊者が13祖のために「仏性海」<真理体得者としての性質によって成り立っている世界>を説明していった。
山も河も大地も、みなそれによって成り立ち、我々人間の最高の境地や神秘的な能力もそのおかげで現れるのだよ。
この引用に、解説を加えていく節。
世界はまさに今この瞬間、「仏性」界の顕現である。山や河をみることは仏性をみるのと同じ。またロバや馬の口先を(今ならバスや自転車や交差点を)みることでもある。しかも、「仏性」が「世界」のウラにあるのではなく、世界がそのまま仏性界なのであって、そこにはスキ間がないのだから、本質と投影とかなんとかそういう構造化のリクツに足をとられてはならないぞ。

■第5節
中国の4代目の祖師、大医禅師が5代目の祖師である大満禅師が約束どおり生まれ変わって7歳になり、道に出会ってかわした問答。すべて漢文のままの引用だから読み下しの練習になります。
大医(あたまのカタチが珍しく優れた子どもだなと思い)「お前の姓は何という」<汝何姓>
大満「姓はありますが、普通と違います」
大医「それは何の姓か」<是何姓>
大満「仏性です」<是仏性>
大医「お前に仏性は無い<汝無仏性>」
大満「仏性というのは有無を超えたありのままのもの。だから無と言うのですね」<仏性空故、所以言無>
大医はこの子どもが法器(宇宙秩序を湛えるうつわ)と知ってお付きの弟子にした。

■第6節
上記の問答に対する道元禅師の解説。
難しいこの「仏性」の巻の中でもここはかなりの難所ではないか。一例。
『四祖いはく、是何姓は、何(が)は是(ぜ)なり、是を何しきたれり、これ姓なり。何ならしむるは是のゆえなり、是ならしむるは何の能なり。姓は是也何也なり』
ここで放り出さずに、西島先生の訳にしたがって、
『是』=われわれの具体的本質
『何』=概念的に表現できない、名づけようの無い何ものか
として我慢強く読んでいくと意味が通ってくる。

本質は概念的にはとらえられない。名づけようのないものとしてとりあげることはでき、それに名前をつけることもできる。またその本質のおかげで名づけようの無い何ものかになっている。本質を「存在」させるのは名づけようの無い何かという指標のおかげでもある。

後半では「無仏性」を「仏性が無い」という通常の使い方から、“仏性という名をつけて呼ぶことさえもったいないような尊い何か=仏性”という意味にステージアップする。

★正法眼蔵に頻出する文言として、
『Aは「A」ではない』
という修辞がある。
また、今日やった第4節には「会取し不会取するなり」=「理解し、不理解すべきである」と出てくる。
この2者は同種ではないが、「否定による超越」という類似をもっている。
キーになるのは、本質は言葉で特定せざるを得ないが、言葉では説明し尽くすことは不可能である、という主張。
言葉や概念で分かった気になった瞬間に外すのだぞ、という強いメッセージと解すべきだろう。
# by doutetsu | 2005-05-02 00:30 | 赤心会ゼミ録

4月16日「仏性」:生きものはすべて「仏性」を持つ。それは意識作用ではなく...

この日は22巻「仏性」の冒頭、第1~3節まで進んだ。
■第1節
釈迦牟尼仏いわく、一切の衆生は悉く仏性を有す。如来は常住にして変易あることなし。
経典からの引用でこの巻ははじまる。
西島現代語訳テキストでは仏性の巻を22の節に分けて講ずる。
正法眼蔵では、ひとつの巻の主要論点が最初にバン!と打ち出されることが多い。この最初の節でもこの経典のことばを様々に論じ、受け取るわれわれは「真理の体得」ということがどういうものなのか理解するための集中を求められる。
いのちあるもの、それを含む宇宙のすべては真理に包摂されている、という「信仰」。
また「悉(ことごと)ク有ス」という副詞+動詞の文言を「悉有(しつう)」という名詞と採り直し、「全存在」と意味づけて使う。こうした手段を多用して1点の真実へ向けて論理を研ぎ澄ませて行く。
これも正法眼蔵の随所にあらわれる。

たくさんキーワードがあるが、ここではひとつだけ次の引用をしたい。
P412行目
「尽界はすべて客塵なし、直下にさらに第二人あらず」
この宇宙には、宇宙以外の付け加えられた夾雑物はなにもない。私には私が意識する第二の私など存在しない。
こうした概念は道元禅師のテキストの中に繰り返しあらわれる。
さて頭の中のコトバでなく、実感できるか否か。

■第2節
「仏性の言を聞きて、学者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり<略>いたづらに風火の動著する心意識を、仏性の覚知覚了とおもへり」
仏の性質、と聞くと、多くの学習者は古代インドの観念論哲学者のいう自我がそれだと思いがちである。現象を認識する意識の作用を仏の性質における認識把握だと思い込む。

第2節目では真理を体得した者の性質を、意識作用ととってはならない、と戒める。
また後段では、仏性を草木の種のように思い、めぐみの雨がこれを潤すと生長し枝葉果実を茂らせるのだ、と考えるのも間違いだ、としている。

だいたいこんなもんだろう、というあて推量の解釈を道元禅師は許されない。

■「第3節」
ここでは時間的条件と「仏性」の関係が語られる。
再び経典からの引用。
釈尊が言った、「仏性」の意味を知りたければ「時節因縁(具体的な時間における環境条件)」を直感せよ。「時節」がいたれば「仏性」が現れる。
このテキストを解釈して、古来多くのやからが、「仏性」はいつか機会が来たら現れるものだろう、それを待って修行していればいい、と思っているが、間違いだ、と一刀両断。自然主義的な一派の勘違いだぞ。
今がその時節だと知ればまさに今、仏性の意味を知るのだ、と。
そして、こう結ばれる。
具体的に到来していない時間はありえない。仏性が現れていないという仏性はない。

少なくとも、いつかやってくる「仏性」を待つというのはいけない、というのは明らか。
# by doutetsu | 2005-04-24 11:37 | 赤心会ゼミ録

2005年度東大仏青 坐禅と正法眼蔵「赤心会」第1回

4月16日
2005年度の第1回は、西島和夫著「現代語訳正法眼蔵第4巻」の最初、「仏性」の巻からスタートした。
難解と言われる正法眼蔵全95巻の中でも、「仏性」は最重要かつ難しい巻のひとつとして知られている。
「仏性」すなわち「仏(=釈尊=真理を体得した人間)」の「性質」を説く巻なのだから、仏教哲学のコアとなるのは当然といえば当然。

上記テキストP3(本巻の大意)より。

『本巻は仏性すなわち真理体得者としての性質について、道元禅師のお立場からその真の意味を縦横に説かれた巻である。
道元禅師のお立場からすれば、仏性とは心・意・識といったような精神に関連するものをさすのではない。
また草木の種のように...

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# by doutetsu | 2005-04-24 10:20 | 赤心会ゼミ録

西島老師略歴

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「現代語訳正法眼蔵」金沢文庫 巻末著者略歴より抜粋
■略歴
1919年11月横浜に生まれる。東京府立五中、旧制静岡高校を経て、1946年9月東大法学部法律学科卒、大蔵省、日本証券金融㈱常任監査役を経て、現在㈱井田両国道顧問。
1940年10月、栃木県大中において沢木興道老師と相見。
1973年12月、丹羽廉芳老師(後に永平寺管長)のもとで出家、法名愚道和夫(ぐどうわふ)。1977年2月法戦式、同年12月嗣法。
■著書
仏教-第三の世界観
現代語訳正法眼蔵(全12巻)
坐禅のやりかた
愚道老人仏教問答
正法眼蔵提唱録
サラリーマンのための坐禅入門
道元禅師四宝集  他多数

★西島和夫’Sドーゲンサンガ ホームページ
# by doutetsu | 2005-04-24 09:01 | 西島老師について

doutetsu/道哲

自己紹介。
職業は、サラリーマン&中間管理職。

無宗教ではないが信仰的要素のない家庭で育つ。父親がなくなったとき、たまたま近所の禅寺を借りて、父の実家の宗派である浄土真宗の僧侶を呼んで葬儀をする。また、初めて家に仏壇が置かれ手をあわせるようになる。さて、これは何をしているのか、と諸々の儀式・様式に疑問を持つ。「発菩提心」というべきか。
仏教関連書を読むうち、西島和夫の著作にいきあたり、明快な論旨に感銘を受ける。
西島先生が講義をしていた東京大学仏教青年会「赤心会」に参加し、坐禅と正法眼蔵の指導を受ける。
あまり若手(当時)がいない中、あれこれ質問をしていたところ、毎夏の坐禅会の幹事をおおせつかる。
その後、仏教哲学の理解は頭だけではできない、という教えに従い、平成6年に受戒。
ちなみにdoutetsuはその受戒名。平成16年より、西島老師が「中論」の再訳に専念するため赤心会の講義をお辞めになった後、ゼミ形式における正法眼蔵購読を幹事代表として担当。

西島先生にならい、西洋哲学の成果を参照しながら、坐禅というメソッドに準拠して仏教哲学の理解を目指しています。
# by doutetsu | 2005-04-23 19:16 | doutetsu自己紹介