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6月4日「袈裟功徳」

45分間の坐禅の後、「袈裟功徳」1回目。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳 正法眼蔵 第二巻」

今回、試みに西嶋老師のこの巻の提唱の音声を通しで聞くことにしました。
ちなみに袈裟功徳は「道元禅師と仏道下巻巻末リスト」では
『集諦のグループ-「伝統」-滅』
すなわち、
客観的事物をとりあげ、仏教伝統の、現実を説く、巻
と位置づけられています。

提唱(録音)冒頭の老師の本巻の解説より
『仏道においてはそういう心とか物とかいうものを二つに分けること自体が現実を見損なう、われわれが住んでいる世界と言うのは物だけでもない、心だけでもない、そういうものが二つに分かれない以前の一つの非常にはっきりした実体がある/
仏教というのは形式も重んじるし、中身も重んじる。形式と中身が一体になったものが法だから/
そういうことの一つの現れが袈裟にも現れてきている/
だから外側を大切にすることによって中身を大切にすることにもなるし、中身を大切にするということは、外側を大切にすることでもある。そういう趣旨から書かれた巻の一つがこの「袈裟功徳」の巻ということになろうかと思う』



テキストp58まで、進みました。
テキストでは29節におよぶ長い巻の3節まで。

お袈裟さは釈尊以来、代々祖師方に伝えられた尊いものである。
無数の仏が受持し、その功徳を学んてこられた。
「たとひ自己なりとも、たふとぶべし」
だから自分がお袈裟をかけたならば、仮にそれが自分自身であろうともお袈裟をかけたというだけで尊敬に値するものになる。
中国に仏教が伝わって以来、多数の者がインドと中国を往還したけれども、サンスクリットの経本を伝来することはあっても、仏教の奥深い所は釈尊以来の正当な伝承者である祖師を通じてのみ伝わった。
「浣洗の法、および受持の法、その嫡嫡面授の堂奥に参学せざれば、しらざるところなり」

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次回は6月18日(土)、P60「大乗義章」引用部より。
by doutetsu | 2016-06-05 16:04 | 赤心会ゼミ録

5月21日「有時」の巻 読了

45分の坐禅の後、「有時」の巻2回目。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳 正法眼蔵 第二巻」

冒頭で西嶋老師が1978年12月28日にこの巻を提唱されたときの冒頭の音声を再生し、皆で聞きました。
老師のなつかしい朗々たる声が響きます。
計算すると59才になったばかりの頃ですが、とてもそうは思えないほど老成し、確信に満ち、説得力のある、まさに「老師」のお声でした。

『「有時」というのは「あるとき」。<略>われわれの人生というのは何かというと、こういう-行いと関連した-「あるとき」という時間の連続です』
時間を過去、現在、未来と続く一本の線のように考えると、抽象的には理解されるがわれわれの人生における本当の時間とは別のものになってしまう。時間・存在・行為について、実存主義など20世紀の哲学でも語られるような高度な思想を、釈尊の教えそのものとして道元禅師は説かれた。
難しい巻であるけれども、一つにはわれわれの常識的な考え方とちょっと向きが違うから。
われわれはなぜ坐禅をするか。
『坐禅をやることによって従来の考え方とは違う、本当の意味での人生というものをとらえるような考え方に移っていくということがあるわけです』
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テキストP30
「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」
時間とは抽象的に空に存在するものではない。何らかのことが行われている、何らかのものがあるという事実と関連してのみ時間は存在する。また時間と関係ない存在はない。「ある」ということは時間と関係してだけある。
P31
「正当恁麼時のみなるがゆえに、有時みな尽時なり、有艸有象ともに時なり」
時間とは今この瞬間しかない。瞬間、瞬間の時間が一切の時間にほかならない。かつ、存在する事物も現象も時間においてある。
P38
「おほよそ羅篭とどまらず、有時現成なり」
人生を束縛する煩いは限りがない。それらもすべて現実の時間、瞬間においてある。
「いま右界に現成し、左方に現成する天王天衆、いまもわが尽力する有時なり」
あるいは右に、あるいは左に出現してわれわれを守護してくれる天王や天使も、われわれ自身が常にベストを尽くしている現実の時間があればこそ出現する。
日常生活のわずらわしいことをコツコツしのいでいくのが人生。思い通りにならない人生の中でも、ふと恵まれている、何かに助けられていると感じることがあるが、それは人間が現在の瞬間を生きているから。

提唱録を読むと「有時」の巻の終わり近く、西嶋老師はこう話されました。
『いいとか悪いとかいってみても、そんなことより大事なのは自分自身が一生懸命生きているかどうかということ。
『仏道がなぜ必要かといえば、そういう点で自分の人生というものが持っておる意味というものをつかむということがある。それは偉いとか偉くないとかいう問題を乗り越えた、自分の生命というものの瞬間、瞬間の現れに気がつくかつかないかということに尽きる』
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以下は、2回にわたる「有時」の読み取り後のディスカッションでの発言です。
「現代の科学や思想を釈尊や道元禅師が先取りしていたように見えることはある。いっぽうその‘先進性’を教えの正しさに援用するのは贔屓の引き倒し」
「実数の時間軸と虚数の空間軸からなる複素数平面における(瞬間×存在)の連続が生命ではないか」
「時間が瞬間にして永遠とは、長さを持たない点の無限の集合が線分になるようなことか」
「正法眼蔵は各巻ごとに、思想・教え説いた巻(仏)、宇宙・世界を説いた巻(法)、生活・戒律を説いた巻(僧)という力点があるように思える」
「西嶋老師は全95巻を苦・集・滅・道で分類されていた(道元禅師と仏道下巻)」

などなど。
by doutetsu | 2016-06-05 15:03 | 赤心会ゼミ録