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『礼拝得髄』 真実の前の平等/男尊女卑を嗤う

1月16日、今年最初の赤心会は、坐禅ののち「礼拝得髄」の講読。(テキスト「現代語訳正法眼蔵」169ページ)
この巻の題名自体は達磨大師と慧可大師の故事から(景徳伝灯録)採ったとされます。
すなわち、達磨大師が4人の弟子に各々その会得したところを問い、最後に慧可大師がただ礼拝して立ちつくしたところ達磨大師が「汝わが髄を得たり」と肯定したというエピソード。

過去の西嶋老師の提唱によれば大意は以下のとおりです。
「礼拝得髄」はそのまま読めば、得髄を礼拝するということ。得髄というのは髄を得た、真髄を得たということ。真髄を得た人のことを得髄という。真実を得た人であれば、子供であろうと女性であろうと、動物であろうと真実を得ているというそのことのために礼拝し、教えを聴くべきである、ということを説いた巻。

道元禅師は次のように語り起こします。
最高で均衡のとれた教えを実践する際には
「導師をうること、もともかたし。その導師は
男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。
古今人にあらず、野狐精にして善知識なるべし」
真の指導者には男も女もなく、時代も関係ない。
自分をコントロールし自由自在に動ける。ユーモラスでもあり厳しくもあってひとつのレッテルで割り切れない。よくわからないすごみがあって、しかも人を十分教える力を持っている。
そういう師である。
そしてそれは
「汝我渠(なんじ、われ、かれ)なるべし」
あなた方自身であり、自分自身であり、あの人でもある。

以下、真実を説く師に出会ったなら、性別、身分、年齢、そして過去の行いの是非すら気にしてはならず、ただ礼拝問法すべきことが繰り返し説かれます。
力ある男子僧侶が礼拝した真実を得た師の例として、末山尼、妙信尼ふたりの尼僧にまつわる話をひいて解説される。
(妙信尼が、教えを乞う17人の僧に「前においで」と呼び寄せ、近づいてきたその瞬間、真実の教えをぶつけたくだりは西嶋老師の解説によって鮮やかに解き明かされる。提唱録1巻下p112)
出家をしていない、夫婦生活を営み、世間の苦労にまみれている居士であっても真実を得た者には僧侶があつまって教えを乞うのが当然。
「たとひ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず、うやまふべからず」
と断じ、この仏道のしきたりを伝えられていなものはあわれむべきである、と言われる。
道元禅師40歳の信念が熱く述べられた巻といえます。
以上この日はテキスト187ページまで。
75巻本の礼拝得髄の巻には、ここまでしか採録されていない。秘密正法眼蔵28巻には後半部分もあり、95巻本にはその全体が編入されています。
この後半は女人禁制の結界というもの、そのしきたりを徹底的に否定し、あざ笑う記述となっています。
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懇談では「7歳であっても真実を得た導師であれば礼拝を、ということだが、さてその人が真実を得た人かどうか、どうやってわかるのだろうか」という話になりました。
この巻はそれについては語っていません。
少なくとも教員免許のように役所かなにかが定めた基準があるようなものではない。真剣に求める人しか、修行しているときにしか、そしてその人にとって、でしか出会えないもののではないか。などなど。
道元禅師も西嶋老師も、生きて出会った宗匠で師と仰いだ方はひとりくらいしかいない。
この巻の主眼は、「礼拝するか否かは真実を得たかどうかだけで決まる。世俗の地位はもちろん宗門の階梯(管長だの大僧正だの)は無関係。いわんや性別になんの差があろうか」その主張ではないかと思われます。
道元禅師の主張は現代にあってなお先鋭的といえます。
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次回、講読は2月6日(土)。礼拝得髄の後半、188ページからになります。
by doutetsu | 2016-01-18 23:50 | 赤心会ゼミ録