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9月5日「一顆明珠」を読む

45分の坐禅。次いで講義室にて講読。幹事以下出席8名。
テキスト『西嶋和夫著 現代語訳正法眼蔵第1巻』
範囲は「四、正法眼蔵一顆明珠」の第1回目。P97からP105まで。
いつもと同じように西嶋老師の語注、現代語訳、提唱録に従って読んでいきました。

P97【本巻の大意】
「本巻は玄沙山宗一大師の言葉である「尽十方世界是一顆明珠」すなわち「全宇宙は一粒の輝やく珠である」を中心にして、道元禅師御自身のこの語に対する解釈並びに宇宙観を述べておられる。」

かつての提唱では、西嶋老師はこのように説明されいます。
われわがなにかひとつの囚われから解放されて、この世の中を自然に調和のとれた形で全体的に眺めることができるようになると、この世の中は実に素晴らしい世界。一切が非常に優れた形で調和が保たれている世界。それを玄沙禅師は‘一粒の真珠の玉’と表現され、その玄沙禅師を道元禅師は高く評価され解説されたのが本巻。

玄沙禅師の時代も、道元禅師の時代も、現在も、良いことばかりの世界ではない。不正も不幸も厳然とある。それをひっくるめて、この世界は一粒の輝かしい珠である、と実感し、言葉にされた。道元禅師もそれを肯った。

「尽十方世界是一顆明珠」とは、坐禅のときの境地である。

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中ほどの本文
『いま道取する盡十方世界是一顆明珠、はじめて玄沙にあり。
その宗旨は、盡十方世界は、廣大にあらず微小にあらず、方圓にあらず、中正にあらず、
活溌溌にあらず、露廻廻にあらず。
さらに、生死去來にあらざるゆゑに生死去來なり

その趣旨は、全宇宙は広大でもなければ、微小でもない、四角くもなければ、円くもない、真ん中だとか、正しいというのも当たらない。生気撥刺というのでもなければ、明々白々というのでもない。
〈要するにこのような概念的な形容では表現できない。〉
「生まれたり死んだりの日常生活」というような抽象的な言葉では形容できないものであればこそ、この宇宙は何かといえば、起きてご飯を食べて働いてということが実体。どろまみれになって働くことに他ならない。

『Aでないから、Aである』
『Bであるから、Bではない』

正法眼蔵によく出てくる、‘矛盾命題’です。

西嶋老師の解説は常に明快で、こうした際否定されるのは、概念/言葉としての、頭の中の仮のものに過ぎない「A」や「B」、ということになります。

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宇宙/世界はそのまま、それだけで「一顆明珠」なのでしょうか。
坐禅をする人間にとって、「一顆明珠」たりえるのでしょうか。

客観的世界と主観的世界。そのどちらも、それだけでは「現実」ではない。
これが西嶋老師に我々が教わった、「仏教的世界観」です。
どこまで行っても、「坐禅」に代表される自分自身の‘修行’によってしか、それは顕現しない。

今回読んだ範囲で、玄沙禅師の「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼(頭で理解して何になる)」の言葉を、おうむ返しにそのまま応答した学僧の態度を玄沙はただちに切って捨てています。
西嶋老師の導きに従って読めば、学人に求められるのは「自分ぎりの自分」の「活計」でなくてはならない、という感得にいたります。

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ディスカッションでは幹事が聴講した朝日カルチャーセンターの「仏教3.0を哲学する<鼎談>2」の論題を紹介し、その後「瑩山禅師における坐禅の上・中・下根」「瞑想と坐禅」「臨済宗の対面と、曹洞宗の面壁の坐禅」などについて懇談しました。

次回は9月19日(土)。『一顆明珠』の巻を終える予定です。
by doutetsu | 2015-09-06 22:00 | 活動・連絡