<   2015年 05月 ( 4 )   > この月の画像一覧

5月30日「弁道話」第14問答から17問答

45分間の坐禅のあと、「弁道話」の続き。
P52第14問答からP61第17問答までを、西嶋老師の提唱記録に従って読みました。



第14問答のテーマは「出家と在家」。
出家者と違って在俗のものは諸事に追われて修行に集中できず仏道にかなうことはできないのではないか、という問いを置いて、
皇帝、大臣から猟者樵翁(きこり)まで道を求め坐禅をすることで仏道の真実を得た、という例をあげ、
「ただこれこころざしのあるなしによるべし、身の在家出家にかかわらず」
やるきがすべてである、と道元禅師は出家優位を否定されます。
世間の仕事が仏法の妨げになると思う者は
「ただ世中に仏法なしとのみしりて、仏中に世法なきことをいまだしらざるなり」
一般世俗名利の世界に釈尊の教えはない、と知っていても、釈尊の教えの中にことさらな「世法」などはないということを知らないのである。
日常生活はひとつでしかない。
社会生活と仏道とか色分け、レッテルを貼ることは誤り。
西嶋老師は提唱で次のように説かれました。
『ただ一個の人間が、朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、勤めに行くということ、そのものが仏道修行である』

第15問答は「末法思想」。
釈尊入滅から正法、像法、末法という時代区分でいうと末法、すなわち「悪世」にあたるこの時代に、坐禅をして真実を得ることができるのか、という問いに対し、
「大乗実教には、正、像、末法をわくことなし」と末法思想を(方便としてすら)否定し、
「証の得否は、修せんものおのづからしらん」
坐禅をすれば自ずとそれに即した体験がある、と。

第16問答は、「『即身是仏』についての誤解」をめぐる問答。
「『即身是仏-現在の自分の心が仏そのもであるということ』を理解すれば完全な得道であってもはや修行はいらないという人がいるが」と問いを置き、
「このことばもともはかなし」と全否定される。
「もしなんぢがいふごとくならば、こころあらんもの、たれかこのむねををしへんに、しることなからん」
もしお前がいうようなことなら、およそ理解する心がある者に教えて認識できないということがあろうか。
法眼禅師と則公監院の「丙丁童子来求火」の妙則(すぐれた説話)が引用されます。
丙/ひのえ/火の兄、丁/ひのと/火の弟。
火そのものである子供が火を求めてやってきた。
教えを求め学んでいる自分自身とは何者でしょうか、と先の師匠である青峰禅師に問い、
「丙丁童子来求火」との語を得て安楽を得た、と思っている則公。
この言葉を「自己をもって自己を求める」すなわち「本来仏である自分のあり方」と概念的に理解して満足していた弟子の則公に、法眼禅師は「お前はわかっていない」と告げます。
則公は再度「いかなるかこれ学人の自己なる」と問い、法眼禅師がまったく同じ言葉を投げかけることで開明させたエピソード。
頭の中で「自分はそのまま仏だ」と思っていることと、自も他もなく、身心を賭けて真実を知ることを願う状態はまったく異なる。
その瞬間に投げ打つ行い。投企。生き生きとした邁進。

第17問答は「何かの機縁で瞬時に悟道したと祖師の事跡」に関して。
掃除のおりに払った瓦礫が竹に当たる音を聞いて大吾した香厳智閑禅師。
山の中腹から爛漫と乱れ咲く桃の花を見て悟道した霊雲志勤禅師。
そうした祖師がたが「かならずしもかつて坐禅弁道せるもののみならんや」と問いを置いたうえで、
「古今に見色明心し、聞声悟道せし当人、ともに弁道に疑義量なく直下に第二人なきことをしるべし」と教示する。
その瞬間を迎え得たのも坐禅修行あってのことである。
釈尊の教えを求めるにあたっては、頭の中で考えることに頼らず思惟にわずらわされず、今現在の瞬間、ふたつに分かれて迷う自己のない状態であればこそと知るべき。
自分の修行に疑問を持たず、自分が分裂していない、バランスした状態。
坐禅の境地に他ならない、と西嶋老師は提唱されます。

〇〇

さいごに西嶋老師にこの段をご提唱いただいたのは2004年の夏、静岡の洞慶院でした。
「仏中に世法なきことをしらざるなり」
「丙丁童子来求火」
これらを上述のようにご解説いただいたときの、世界が広がるような、胸のすくような感覚が、今もよみがえります。

〇〇〇
次回は来週6月5日(土)。この回で弁道話の巻を終わる予定です。
by doutetsu | 2015-05-31 17:49 | 赤心会ゼミ録

5月16日の坐禅・購読(日本語の会)はありません。

5月16日の坐禅・購読(日本語の会)はありません。
会員より同日開催の東大仏青主催「五月祭講演会」聴講の希望があったため、講演会聴講に振り替えることになりました。

※以下仏青HPより引用します。
http://todaibussei.or.jp/
講 師: 田口 ランディ 先生(作家)
演 題: 「幸せ」のために仏教ができること
日 時: 平成27年5月16日(土)14:00~16:00
会 場: 東京大学本郷キャンパス工学部1号館15教室

次回の坐禅と購読は5月30日(土)14:30より、
購読は「正法眼蔵 弁道話」第十四問答から、となります。
by doutetsu | 2015-05-15 11:11 | 活動・連絡

2015年5月2日講読「正法眼蔵 弁道話」

坐禅の後講義室にて、「正法眼蔵」講読 8名。
範囲はテキスト「現代語訳正法眼蔵第1巻」44ページから52ページまで。
「弁道話」のいわゆる18問答の第8問答から第13問答まで。
中で長文なのが想定問答の10番目にあたる、「心性常住」すなわち霊魂不滅の説に対する批判の節。
■■
あるひとがいわく、霊魂は不滅であって、肉体が滅んでも魂の世界に入っていくのだから、生き死にを嘆く必要はない、と。これは釈尊以来の諸祖の教えにかなうことか。
「しめしていはく、いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼外道の見なり」
教示していう。それは仏教的世界観とはまったく異なる、唯心論者Senika等の非仏教徒の見解である。
「しるべし、仏道はもとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる」

「常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心をわくことなし。
寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし」
不滅とみれば実在するものはすべてかたちを変えながら存続して不滅であるといえる。
変化するとみれば、心は瞬間瞬間に変わるし、本質といおうと外形といおうと不変のものはない。
「生死はすでに涅槃なりと覚了すべし」
この生き死にの世界こそが至福の境涯であると了解せよ。
「仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし」
大乗起信論にある‘心真如即一法界大総相法門体’とは、この世の中の一切が心であり魂であるという見方であるが、そこにおいて本質と形相を区別することはなく、必滅・不滅を主張することもない。
■■
講読後のディスカッションでは大乗仏教の根本とされる「身心一如」と、上座部仏教では前提とされる「輪廻」について話が出た。

More
by doutetsu | 2015-05-10 16:35 | 赤心会ゼミ録

本日の範囲

GW最中ではありますが、予定通り、14時半より坐禅、その後「正法眼蔵」講読を行います。
テキストは「現代語訳正法眼蔵第1巻。」
講読範囲は、44ページ(第八問答)から52ページ(大十三問答)を予定します。
by doutetsu | 2015-05-02 09:52 | 活動・連絡