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「75.自証三昧」講読会 法のなかに生まれ法のなかに滅す

2回に分けてやりましたが、単なる通読だと趣旨の流れをつかみにくいので、西嶋老師の「現代語訳正法眼蔵」「同提唱録」に即して、整理してみました。要約は末尾。

テキスト107ページ「本巻の大意」
自証とは自分自身の体験という意味であり、自証三昧とは、自分が自分自身を体験する境地をいう。したがって自証三昧とは、坐禅によって得られる境地に他ならないのであるが、それはまた高徳の僧侶を介して学ぶべきものであり、経典を通して学ぶべきものでもある。 しかしながら仏教徒の一部には、自証三昧という字句にこだわって、自証三昧とは師匠や経典の力をかりず、全くの自力で真理を把握することと解する向きもあるので、道元禅師はそうした自証三昧に対する誤解の一例として、大慧宗杲禅師の場合をあげ、それを手がかりとして、自証三昧の真意を解明しておられる。
■冒頭、自証参昧、或従知識・或従経巻が説かれる。
『諸佛七佛より、佛佛祖祖の正伝するところ、すなはち自証参昧なり。いはゆる或従知識、或従経巻なり。』
「訳:遥か昔より真実を得た方々が正しく伝えてきたのは‘自分が自分を体験する境地=坐禅の境地’である。そして(同時に)それは、いうところの、あるときは師に従い、ある時は経典に従うこと、である」
■師から学ぶこと、経巻から学ぶことは、自分を学ぶことである。
『これ或従知識の活計なり、参自従自の消息なり』
『或従経巻のとき、自己の皮肉骨髓を参究し、<略>その経巻といふは、盡十方界、山河大地、草木自他なり。喫飯著衣、造次動容なり。』
「訳:これこそが、高徳の僧侶に従うという生き生きとした行動の状態であり、自分自身に参じ自分自身に従うことの実情である。師匠の教えを聞くことにより自分というものがわかってくる事情である」
「訳:経巻を学ぶとは、自己を学び徹することであり、そのときわれらを教える経巻が現に現れる。そして、全宇宙、自然環境、日常生活、瞬間の行動が経巻そのものである」
■自分の学んだ法は人に説くこと。それがさらに学ぶことでもある。
『爲説はかならずしも自他にかかはれず』
『他のための説著すなはちみづからのための説著なり。自と自と、同参の聞説なり。一耳はきき、一耳はとく。
一舌はとき、一舌はきく』
『他のために法をとき法を修[実践]するは、生生[生涯における瞬間、瞬間]のところに法をきき法をあきらめ、法を証[体験]するなり』
『法のなかに生じ、法のなかに滅するがゆゑに』
「訳:〈われわれは〉宇宙秩序の中に生まれ、宇宙秩序の中において死滅するのであるから」
『いまだあきらめざれば人のためにとくべからずとおもふことなかれ。あきらめんことをまたんは、無量劫[永遠]にもかなふべからず』
■このことは正しい師によらなければ得られない。
『この佛儀[釈尊以来のやり方]は、たとひ生知[生まれつきの智者]といふとも、師承にあらざれば体達すべからず』
■そして、自証ということを自分で悟ることであると解し、自分は悟ったのだからと師匠に嗣法を請求した大慧宗杲禅師について、何人もの師に許されなかったエピソードを引用し、長文にわたり、極めて厳しい口調で非難・裁断することで本巻は終わる。
『しかあるに、自證自悟等の道をききて、麁人[粗雑な人]おもはくは、師に伝授すべからず、自學すべし。これはおほきなるあやまりなり』
『大宋國紹興のなかに、徑山の大慧禪師宗杲といふあり、もとはこれ經論の學生なり』
『あるとき、佛祖の道に臂香嗣書の法ありとばかりききて、しきりに嗣書を微和尚に請ず。しかあれども微和尚ゆるさず。』
『ときに宗杲いはく、‘本より正眼を具して自證自悟す、豈に付授せざる有らんや’。微和尚、笑つて休せり』
『貪名愛利によりて、佛祖の堂奥ををかさんとす。あはれむべし、佛祖の語句をしらざることを』

★本巻の主張の構成は以下のとおりと考えられる。
自証三昧とは、坐禅の境地である。仏道修行そのものである。
師に従い、経典を学ぶことであり、それは日常世界のすべての瞬間をかけて自己を学ぶことである。
修行者はおそれずに他人のために法を説き、ともに修行すべきである。
一方でこうしたことの威儀は正しい師から受け継がなくてはならない。
自分が悟ること、悟っているかどうかは、どうでもいい。そういう理解をし、こだわる限り、釈尊の教徒として認めてはならない。
by doutetsu | 2012-11-04 19:32 | 赤心会ゼミ録