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活動記録「龍吟」

11月5日(土) 1柱の坐禅の後、講義室で講読会。
【テキスト】西嶋和夫著『現代語訳 正法眼蔵 第9巻』
【講読範囲】 「65.正法眼蔵 龍吟」
【参加者数】 10名
【ポイント】
テキスト『本巻の大意』から抜粋
龍吟という言葉は、(中国の仏教問答において)枯木裏龍吟として使われる。木が枯れ果てて生命現象が感じられない枯れ木林の中でなお聞こえてくる龍のうめきを枯木龍吟という。それによって象徴されるものは何かといえば、われわれの眼にも見えず、耳にも聞こえない、言葉で表現することのできない何物かであるといえる。
仏教は安易に神秘主義を信ずる思想ではない。しかし同時に眼に見えるもの耳に聞こえるもの、総じてわれわれの感覚によって捉え得るもの以外には何物の存在をも認めないという不遜を犯す思想でもない。
龍吟とは、思惟や感覚を乗り越えた行為の世界において、直感的に感得される何物かであり、それは宇宙秩序すなわち法そのものであり、真理そのものであるともいえる。
本巻では道元禅師が、そのような意味における龍吟の内容を、投子大同禅師、香厳智閑禅師などの言葉を引用しながら説いておられる。
引用p116
『宮商角徴羽に不群なりといへども、宮商角徴羽は龍吟の前後二三子なり』
宮・商・角・徴・羽(きゅう、しょう、かく、ちょう、う)とは中国における音階の名前。
文意は「「龍吟」の音のない響きとは、ド・レ・ミ・ファ、のような音階と同じ種類のものではないが、ド・レ・ミ・ファ、のような音楽の音階は、「音のない自然の響き=龍吟」が基盤となってその上、下というような音階として具体的に現れたものである」
音楽というものも、人類において生物進化上の意義に照らして過度なほど発達し希求される不思議なもの。
耳には聞こえない宇宙の響きを人が感じ取り、汲みだすのが音楽なのかもしれない。

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講読後のディスカッションで、
「『枯木龍吟』を、老境を迎えて感じる何ごとか、と考えると腑に落ちるのです」
という意見があった。
それが道元禅師の、あるいは正法眼蔵というテキストの意図するものであるとは言えない(証明できない)。
けれども、牽強付会に過ぎるのでなければ、個人が向き合うなかで当人にとっての意義をくみ取ること以外に、思想・宗教書と向き合う意義はあまりないだろうから、そういう向き合いをされているのだな、ということが納得できる発言だった。

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次回は11月19日(土)
坐禅の後、現代語訳第9巻P127 『66.正法眼蔵春秋』を読む予定です。
by doutetsu | 2011-11-06 15:06 | 赤心会ゼミ録