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4月30日『梅花(後半)』 今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり

赤心会ゼミ録
●実施日:110430 ●参加者数:10名
●テキスト:西嶋和夫著 現代語訳正法眼蔵第8巻
●講読範囲:「梅華」第2回 212~頁(終了まで)
●次回予定:5月7日(土) 現代語訳第9巻 「十方」

坐禅のあと、講義室へ移動し、「正法眼蔵梅華」の続き。

一面の雪の中で梅の花が開くことが世界を早春にする

■ 前半に続き、道元禅師が、敬愛する先師天童如浄禅師の梅の花にちなむ語録を引用し、それが示す釈尊の教えの真髄を解説し称揚する。

すなわち、「主観と客観」、「現象と世界」、「要素と全体」あるいは「前景と背景」はひとつのものである、ということこそ釈尊の眼晴=ものの見方・捉え方であることを説く。

■ 引用と意義
『一念頃の功夫は、前後おなじく万古不移なり』
坐禅の一瞬一瞬は前後にわたり変化することのない永遠の性質を持つ。

花枝同条満のゆゑに、吾有正法、附嘱迦葉なり、面面満拈花、花花満破顔なり』
花と枝とが同じ場所に生起し梅としての姿を発揮しきっているからこそ、釈尊は「自分は正しい宇宙秩序を持っている、これを迦葉尊者に付託する」といわれたのであり、人という人は、いずれも釈尊が持たれたと同じような花を手にしているのであり、花という花は、いずれも迦葉尊者と同じような微笑を、その力量をたたえているのである。

『今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。
直に梅花眼睛を開明なるべし、さらにもとむることやみね』

現実の世界が展開されるこの‘いま’は、人間として個人としての‘いま’ではなく、宇宙全体の中における‘いま’である。
直接にありのままに梅の花を見るという釈尊の持っておられたものの見方を理解する必要があるし、それ以外の立場を求めるのはやめなくてはならない。

西嶋老師は「幸いにして仏道を勉強する機会を与えられた以上、仏道修行者としての今現在である」と提唱された。

■ 講読後のディスカッションで出たある意見。集約すると
「あれこれ読み、聴きするなかで最近西嶋老師の著作を知ったが、正法眼蔵を‘坐禅をしながら論理的に’理解するには西嶋先生の説明が最もわかりやすい。
にもかかわらず、本屋でも図書館でも著作に触れる機会が減っているようだ」
という声があった。
by doutetsu | 2011-05-04 10:48 | 赤心会ゼミ録