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2月5日「正法眼蔵 面授」

坐禅の後、講読会
【テキスト】西嶋和夫著『現代語訳 正法眼蔵 第8巻』
【実施日】20110205
【講読範囲】第8巻「57.面授」p161~176(現代語訳)
【参加者数】幹事含め8名
【内容・意義】

『葛藤をもて葛藤に面授して、さらに断絶せず』

p161「本巻の大意」より
’面授とは、仏教界における宇宙秩序の伝承に当り、師匠と弟子とが現実に顔と顔とを合わせ、一対一の形で全人格的な伝承を行なうことをいう。そして仏教界において何故この現実に顔と顔とを合わせた一対一の伝承が不可欠のものとされるかというと、師匠と弟子との間において伝承されるものは、単に文字や言葉によって表現された思想でもなければ、感覚的に把えられた個別の体験でもなく、それは真理体得者となり得ている師匠と、同じく真理体得者となり得たところの弟子との間において行なわれる全人格的な伝承であるからである。’

p170
『震旦国以東、ただこの仏正伝の屋裏のみ面授面受あり。あらたに如来をみたてまつる正眼をあひつたへきたれり。
釋迦牟尼仏面を礼拝するとき、五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つらなるにあらざれども、倶時の面授あり。』
≪訳文抜粋≫
「中国以東の国において、釈尊以来の正しい伝統を荷っている流派においてのみ、一対一で伝授を行ない、一対一で受領を行なうということが行なわれているのであり、鮮明に釈尊のお姿を拝見申し上げるところの正しい眼というものを、〈師匠から弟子へと〉次々に伝承して来たのである。
釈尊のお姿を礼拝する際には、〈摩訶迦葉尊者からこの道元に至るまでの〉五十一人の祖師方や過去七仏の方々が、横にならんでいるとか、たてに並んでいるとかということはないのであるが、〈しかも〉一斉に一対一の伝授を受けるのである。」

師と弟子が現実の場で真摯に向き合う瞬間、「真実」を求める者同士の授受の行い、こそ言葉で言えないしかし決定的な何かである。その「瞬間」は歴史におけるすべての’面授’の瞬間と合同∋等価であるといえる。

★次回は2月19日(土)
p176(原文)より。「面授」の巻の終わりまで進む予定です。
by doutetsu | 2011-02-06 18:42 | 赤心会ゼミ録

1月29日(土)赤心会正法眼蔵『洗面』2回目

【テキスト】西嶋和夫著『現代語訳 正法眼蔵 第8巻』
【実施日】20110129
【講読範囲】第8巻「56.正法眼蔵洗面」p139~159(終了)
【参加者数】幹事含め9名
【意義・内容】
頭から顔、耳の裏まで洗う「洗面」と、丁寧に歯を磨き舌をこそぐ「嚼楊枝」の作法が詳細に語られる。
曰く。
楊枝を使う威儀は経典に明記されているのに、宋においてその習慣が行われておらず、道元禅師が出会った出家在家ともに口臭が耐え難かった。
『おほよそ嚼楊枝・洗面、これ古仏の正法なり、道心弁道のともがら修証すべし、
<略>
いまだ洗面せずば、もろもろのつとめ<礼仏・誦経・焼香・坐禅>ともに無礼なり』

洗面の巻は3度にわたり示衆されている。道元禅師が重視のゆえと言われる。
重ねて示衆の際の捕捉で、上記と反対に宋では貴賎を問わず家に面桶を備え洗面をしていたが、日本にこの習慣がないことを挙げる。
両方やることが修行に必須である、と。
『一得一失なり。いま洗面・嚼楊枝、ともに護持せん<略>仏祖の照臨なり』

余談として、「こうしたtextがあることは、日本の清潔好き文化と相乗しているのではないか」と話し合った。
by doutetsu | 2011-02-06 17:26 | 赤心会ゼミ録