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2010年度坐禅会の案内

本年も久住山洞慶院のご厚意により、恒例の坐禅会を開催する運びとなりました。
静謐な山間の由緒ある寺院(当ブログ冒頭写真)で、坐禅中心の差定で過ごす2日間です。
奮ってご参加ください。

日 時:8月28日(土)午後1時より29日(日)午後1時半まで/1泊2日
    <夜、朝、昼3食>
会 場:久住山洞慶院 〒422-1215 静岡県羽鳥1840
参加費:10,000円 
所持品:タオル・洗面具、ハンガー等。服装は、坐禅ならびに作務のできるもの
交 通:JR静岡駅 北口よりタクシーまたはバス(羽鳥バス停)
申込期限:7月31(土)☆申込者には8月中旬に参加要領を送ります。
■申込方法■
氏名・連絡先<住所・メールアドレス・電話番号>を
電子メールで幹事/当ブロガーまでご連絡ください。
eiki.yanagimoto@gmail.com
※ドーゲンサンガ・赤心会では6月19日より東大仏青で案内を配布します。
by doutetsu | 2010-06-13 17:13 | 活動・連絡

西嶋老師6月「中論」ご提唱スケジュール

6月の西嶋老師による「中論」特別ご提唱の予定は以下のとおりです。

6月19日(土)
場所:東京大学仏教青年会
時間:15:30~17:00
   <14:30~15:15坐禅>
テキスト:『根本的な中論の歌』金沢文庫
     ナーガールジュナ著/西嶋和夫訳
範囲:P76第14章「融合に関する検証」
お問い合わせは赤心会幹事
eiki.yanagimoto@gmail.com
まで。

尚、6月26日・27日は老師関西ご巡錫となり、
大阪にて「中論」ご提唱が行われます。
by doutetsu | 2010-06-13 16:29 | 老師「中論」御提唱

2009年度会計概要報告

会計係のSさんに代わって2009年の会計を以下に報告します。
※本体の会計からの年初預かり金と収入・支出の概要のみ。

【収入の部】
年初本体会計より預かり:200,000円
参加費収入:       87,100円
 ◆計◆        287,100円
【支出の部】
老師送迎費:       51,780円
老師転居支援:      10,560円
老師誕生祝い品:     31,500円
雑費(コピー、坐禅会補助) 4,100円
 ◆計◆         97,940円
次年度繰越預かり金   189,190円

以上
by doutetsu | 2010-06-13 16:11 | 活動・連絡

『52.正法眼蔵 仏経』講読

5月29日(第5土曜)、6月5日(第1土曜)の2回で『仏経』の講読を終わった。
各会参加者/聴講者は9名。
テキストは西嶋老師の『現代語訳正法眼蔵第8巻』
西嶋老師の訳ならびに提唱記録に基づき購読した。
<次回予定。6月19日は西嶋老師による『中論ご提唱』
 赤心会による正法眼蔵講読は7月3日、同テキストの「53.無情説法」に入る>

本巻は仏教経典に対する道元禅師の考え方が述べられている。
昔から仏教経典については、簡単に言えば、これを絶対視する考え方と、『不立文字、教外別伝』として軽視する考え方の二通りがあると言われる。
『正法眼蔵』における道元禅師の考え方はその中間にある。
仏教は一つの思想であるからそれが盛り込まれた経典を読むことは大切である。
同時に釈尊の教えは単なる理論ではないから、経典さえ読めば事足りるということはない。
ただし、この巻においては仏教経典軽視への強い警めが説かれ、また釈尊の教えは宇宙の真実であるから、世界や宇宙のありようがそのまま仏教経典である、という『渓声山色』等の巻と同じ立場の主張が行われている。

テキスト21頁 【本巻の大意】より
「<略>したがって仏教経典は、仏教を学ぶ上において不可欠の要素となっているのであるが、仏教徒の一部には、不立文字・教外別伝などと称して、仏教経典を軽視する向もある。そこで本巻においては、このような仏教経典に対する偏見が正しい仏教思想でないことを説くと同時に、同じような立場から、三教一致すなわち道教・儒教・仏教が結局帰するところは一つであるとする思想をしりぞけ、逆に大満弘忍禅師が大鑑慧能禅師の人格を見抜かれたような事例もまさに看経の一種に他ならないことを述べておられる。」

【原文引用】
◆『いはゆる経巻は、尽十方界これなり、経巻にあらざる時処なし
◆<道元禅師の師、天童如浄禅師は、わが教団では焼香・礼拝・念仏・修懺(ざんげ)・看経を用いず只管打坐のみ、と常に言っていた。これほどの言葉を明言出来るものはまれである。
『看経をよんで看経とすれば触す、よんで看経とせざればそむく』
※経典を読むことが、ただ文字を読み頭の中で理解することだとするなら、経典を読むということを汚すことになる。経典は読んでも読まなくても関係ないと思えば、それは釈尊の教えにそむくことになる。
◆『仏経の達者にあらざればとて、みだりに仏経は仏法にあらずといふことなかれ』
◆『あるひは為人の手をさづけんとするには、臨済の四料簡・四照用、雲門の三句、洞山の三路・五位等を挙して、学道の標準とせり。先師天童和尚、よのつねにこれをわらふていはく、学仏あにかくのごとくならんや』
※「悟り」へ向けたノウハウ、ステップをあとから付け足すようなものは仏教ではない。
◆『古徳いはく、なんぢ経にまよふ、経なんぢをまよはさず
◆『広学措大は要にあらず、知人のまなこ、知人の力量、いそぎもとむべし
※広く学問したり、大きな仕事を取り扱うといったことは必ずしも重要ではない、本当の人間の価値を見抜く力こそ求めるべきものである。

このテクストに誰もが読み取れることは、
『釈尊の教え-思想体系には「因果の法理」と「刹那生滅」を中心に世界も人生問題もすべてが説きつくされている。並ぶべき他の教えは無いし、何が仏教で何が仏教でないかは明確に判定可能である』という確信である。

この確信を信仰という回路を経ずに共有することは可能だろうか。
by doutetsu | 2010-06-06 19:06 | 赤心会ゼミ録