<   2008年 10月 ( 4 )   > この月の画像一覧

10月25日26日豊橋大阪ご巡錫

10月25日(土)26日(日)の一泊二日。
秋の西嶋老師関西ご巡錫のお供をした。
今回は途中、豊橋で下車し、ドーゲンサンガ愛知の集まりに参加することになった。
ドーゲンサンガ愛知は代表Sさんの取り組みで盛んな坐禅会と勉強会が行なわれている。
豊川稲荷の門前町にあるコミュニティースペースで40人ほどの参加者に対して先生が坐禅について講演をされた。「人間の幸福はつまるとこと自律神経のバランスである」、という説明に出席者は集中して聞き入っていた。
Sさんに豊橋まで送っていただき、新大阪へ。
新大阪駅にはドーゲンサンガ大阪のGさんが出迎えに来られた。ホテルにチェックインし、料理屋へ移動し、京都や正眼会の皆さんと会食。
翌日は6月と同じ大阪証券取引所で先生のご講義。
「中論を解明することで仏教が宗教ではなく人類の最終哲学であると確信した」
中論の提唱ではなく、仏教に関する質疑応答で午前中を終えた。
帰りの新幹線の中では、仏教の世界への展開、ドーゲンサンガなりの「しきたり」を確立していくことの重要性についてお話を伺いながら東京へ戻った。

沢木老師が、宗門の押し出しの立派な僧侶らしい僧侶について、「’枝ぶり’のいい僧侶」と呼んでいた、という話を伺った。
「枝ぶり」が良いことはそれはそれで良い。
本質は、また別の話だと、おっしゃりたかったのだろう。
by doutetsu | 2008-10-26 00:59 | 活動・連絡

10月18日西嶋老師「中論」ご提唱

冒頭、「中論」日本語訳の再改定が終了した旨、お話があった。
金沢文庫より出版された後は新訳をテキストにご提唱いただけるとのことで喜ばしい。

第4章『集合体に関する検証』の続き、第3頌より。
第4章は、客観世界がどういうものか、を扱う第3~7章の1章。
65ページ
第3頌 「不合理なものの不存在」
●外見という考え方があるため外見と本質が別々に見えることがあっても、両者はひとつのもの。この世にありえぬ不合理なものが本質と見える場合はその不合理も本質も実在しない。
第4頌 「本質と外見」
●本質は外見に見える形では現れない。本質は外見に見えない形では現れない。本質と外見が分離できない現実の事態の「要素」であるから矛盾した主張が同時に成立する。
第5頌 「本質的な転換の欠如」
●根拠の無いものが世の中に現れることはなく、実体なしに外見だけが現れることもない。転換とは瞬間が次の瞬間に推移することであり、現在の瞬間に転換という事実は実在しない。
第6頌 「現実の行いは居心地の良い悪いと無関係」
●実行された仕事が現実の事態として世の中に現れるだけ。行いの最中は良い悪いは判らない。
第7頌 「一切の探求と外見的な世界」
●一切のものに対する探求は存在の中で行なわれ、進歩は外見を基準として行なわれる。
第8頌 「人間の自主性と管理された状態」
●人間が独立独歩の状態にあるときは、逆に用心深く、また落ち着いた態度をとることができる。回避できない問題はあるが管理された状態で迎えることができる。
第9頌 「均衡した状態と物事の成果」
●均衡した状態ならば人を非難する際ですら良く説明できる。非難されるところがなければ管理された状態で一切が具現化する。

73ページ
第5章
仏道では物質の存在は客観世界の解釈として認めている。理性でも感性でも世界の実在を確認することはできないが、自律神経が均衡しているとき、直感的な判断を通して現実世界の実在を確認することができる事情が述べられている。

第1頌 「現実的な空間の不可視性」
●なんらかの特徴と一体でなけれ空間を空間として認識することはできない。
第2頌 「物質と特徴」
●特徴のないものは存在しない。特徴が無ければ存在を認識できない。
第3頌 「特徴そのものの動きと現実の世界」
●特徴はその特徴を持つものと一体であり、ある特徴を持つものと持たないものが同時に存在する世界に実在する。
第4頌 「特徴の認識と事物の存在」
●特徴が認識できなければ特徴(物)も存在しない。
第5頌 「特徴の存在と特徴の認識」
●特徴の認識が気付かれなければ特徴の存在も認識されない。
第6頌 「存在、不存在の議論の無価値」
●この世が存在するかしないかは理性でも感性でも結論付けできない直感の判断の問題。存在しないという断定は許されない。 
第7頌 「物質そのものと判断」
●現実世界は(言葉では)存在するものでも存在しないものでもない。特徴もしかり。物質のありようである地水火風空(固体、液体、現象、気体、空間)は個々に独立している。
第8頌 「現実と実在」
●目の前の現実として見えている事物の実在を否定することは愚かである。事物は単に見えているだけではなく、静かな恵み深いものとして見えている。

10月18日は以上81ページ、第5章の終わりまで。
先生のご発言より。
『仏教は実在論であり、「中論」はそれを明快に説いている』
『今日の箇所も、特徴を認識できないものは存在しない、と観念論的に読むのは間違いで、存在しているものは特徴を有するの意』
『仏教は人間に重きを置いた教えだが、宇宙には人間が生まれる以前からやがて人間を生み出す要素があったわけで、人間を大事にするのと同時にその要素も大事にしなくてはならない』
『霊魂は存在しない。中論は繰り返し明言している。死ねば暗闇で永遠の休みがとれる』
『生きている以上、生きている社会や世界を知りたいと思うのが人間であり、またそうでなければ意味がない』

次回は11月15日(土)。年内のご提唱はこの回まで。
by doutetsu | 2008-10-19 15:55 | 老師「中論」御提唱

10月4日正法眼蔵「光明」

現代語訳『正法眼蔵』 第6巻「36.光明」

東京大学仏教青年会の夏季休館明け最初の赤心会。
「光明」の巻132ページまで夏休み前に進んでいた。今日はその続きから後半を講読し、終了した。

仏教に限らず宗教的なテキスト・言辞では「光」や「光明」がしばしば語られる。
端的にいえば、仏教における「光明」は実際の物理的な光ではなく、神秘的な光でもない。
その「光」は、坐禅や日常の具体的な行いの中でただ自他一体に実感されるなにごとかである。

次回赤心会は11月1日(土)

同巻37「身心学道」に入る。
by doutetsu | 2008-10-19 15:45 | 赤心会ゼミ録

西嶋老師「中論」ご提唱9月20日

夏季休館明けで2ヶ月ぶりの西嶋老師のご提唱。大勢の聴講者が集まった。

テキスト52ページ、第3章より
全部で27章からなる「中論」において、第3章から第7章までは、われわれが住んでいる客観世界がどのような実情の世界であるかを説いている。
感覚・物質存在をを扱う科学的、唯物論的なまとまりであり、四諦との関連では「集諦」に相当する。

第3章「眼その他の感覚器官に関する検証」
ここでは、客観世界を受け入れる直接の窓口である感覚の問題を取り上げている。
52ページ
第1頌 「6種類の感覚作用」
<眼耳鼻舌身意:色声香味触法>
第2頌 「物を見る働きの役割」
<われわはものを見ることで心があることを知る。そのことを目で見ることは出来ない>
第3頌 「現実の実体と言葉による説明」
<見られた事実の表現は言葉による説明であり、現実の行いとは異なる>
第4頌 「思考と感受作用」
<思考作用がなければ見ることにより「ある」ことを知ることはできない>
第5頌 「感受作用の不可見性」
<見る働きが見られることはない。見ることで外見を説明することができ、本質を思考することが可能になる>
第6頌 「見えている事実と見るという働きの融合」
<見る働きはそれ以上の意味は無いが軽視することのできない現実的なものである>
第7頌 「現実世界の実在」
<見られたものと見る働きはひとつである。現象は実在する>
第8頌 「全ての感受作用に関する共通の説明」
<他の感覚-聞く、嗅ぐ、味わう、感覚を統合する-も上述の見ることと、同様である>
続いて。
第4章『集合体に関する検証』
第1頌 「外見と本質の融合」
<外見と本質は一体となって見えている。頭の中で分けることはできるが、現実は一体>
第2頌 「現実の世界における不合理の否定」
<外見にこだわると外見と本質が異なるように見える。現実世界に不合理は存在しない。人間が「目的」を持つと不合理が可能になる>

9月20日は以上64ページまで。

西嶋老師のご発言より。
『「中論」を理解するのに50年かかった。本当にわかったと思えたのは今年の春』
『何が実在かといえば、行いこそが実在である』

次回老師ご提唱は10月18日(土)
by doutetsu | 2008-10-19 15:27 | 老師「中論」御提唱