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3月17日「行持(上)」

自分の「行い」以外のなにかに依存して生きることは結局、空しい。

45分間の坐禅の後、講義室に移りゼミ。
見学者も含め8名。
西嶋老師「現代語訳正法眼蔵」第5巻、「行持(上)」の巻p154より。

大百山宏智禅師の事跡。
ここには出てこないが、宏智正覚(わんししょうかく)禅師は「黙照禅」の大成者といわれる。臨済系の大慧宗杲(だいえそうこう)が公案をつかう看話禅を称揚し、黙々と坐る坐禅を貶称したのを逆手にとって黙(坐禅)の中にこそ照(慧)がある、と再批判したと仏教辞典にある。

公案禅とは、アタマの中で原理抽象的な概念操作を重ね、その果てに感じる突破感/昂揚を「悟り」としてアディクトする嗜好。
まあアルカロイド類を使わないぶん、社会的害は少ない。

戻って。
p155、道元禅師いわく
「大悟を待つことなかれ、大悟は家常の茶飯なり」
「悟り」=真実の体得とは、日常生活が普通にきちんとできることに尽きる。
「ただまさに、家郷あらんは家郷をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をはのがれ、利あらんは利をのがれ・・・」
金にも名誉にも故郷にも家族にも執着するな、と繰り返す。
「すでにあるをはなる、なきをもはなるべき道理あきらかなり」
こ巻では、寝食を忘れて修行する祖師の行持を尊んでいるが、ここでは「この行持あらん、身心みずからも愛すべし、みずからもうやまうべし」と説く。

人間は、何かに執し、愛好し、依存して生きるのが普通。
しかし、結局、自分の「行い」以外のものに依存して生きるのは空しく、はかない。
きびしいようだが、真実なのだろう。
しかし、難しい。

名利に執着せず、坐禅を基礎にして自分で自分の行いをコントロールするのであればその自分の身心は尊ぶべきである。
これも、毎日坐禅をしている瞬間は納得できる教えである。

3月31日は、東京大学仏教青年会の春季休館にあたるため休み。
次回は4月7日、p162より。
by doutetsu | 2007-03-22 00:19 | 赤心会ゼミ録

3月3日 「行持(下)」

p141 大梅山法常禅師の行持から。
師である馬祖道一禅師の「即心是仏」の語を聞いて「言下ニ大悟ス」。大梅山の山頂にこもって昼夜坐禅をした。
あるとき兄弟弟子の教団の僧侶に山中偶然発見され、寺に来るよう要請されるが、詩を残してさらに山奥に入っていった。
次いで、師の馬祖は僧を派遣した。
使者の僧「どんな根本原理を体得して、山中に篭ったのですか」
法常「即心是物」
僧「最近では仏道の説明が違っています。
法浄「どう違うのか」
僧「最近の馬祖師は『非心非仏』と説いています」
法浄「先輩よたぶらかさないで欲しい。他の人はともかく自分は『即心是仏』のみだ」
それを聞いた馬祖道一禅師は
「梅の実は熟したな」
と。
by doutetsu | 2007-03-11 00:05 | 赤心会ゼミ録