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10月21日 正法眼蔵 仏向上事

テキスト 『現代語訳 正法眼蔵』(西嶋和夫著)第5巻 P51より

坐禅の後、講義室にて。参加者8名

■洞山良价禅師-釈尊より38代目の祖師-と弟子の僧との問答の引用から

「真理を体得した後も、日々営々として向上に努力するという事態を体得したら、いくばくか話を語る資格がある」
「語る話はどのようなものでしょうか」
「話している間はお前さんは人の話を聞けない」
「では和尚であれば聞くことができますか」
「私といえども自分が話し終わってから、人の話をきくだけだよ」

この問答に関して、緻密な解説が続く。
悟りを得たらそれで卒業、あとは教えを垂れるだけ、という考え方はまったくない。
日常、話をし、話を聞くという当たり前の行為をきちんと行う。

「真理を体得して後も、日々営々として向上に努力する人というものがあることを知る必要がある」
「いったいどんな人のことですか」
「非仏<それは仏-真理体得者-と呼ぶことすらできない>」

道元禅師解説が続く。
この境地は高祖洞山禅師でなければいい得ない。どれだけ長く修行すれば得られるというものでもない。
坐禅のある生き生きした生活を通して学ばなければありえない。
『いはゆる弄精魂の活計なり』

仏向上人となれと言っているのでも、会いなさいと言っているのでもなく、そういう人がいるということを知りなさい、と言っている。

真実を得た後、さらに向上の努力をする。そのとき仏という名前で呼ぶこともあたらない。
名前で捉えられる事態ではない。
また見た目でわかる状態でもない。
『その非仏というは、脱落仏面目なるゆゑにいふ、脱落仏身心なるにゆゑにいふ』

西嶋老師いわく「偉そうに見える間はほんとうではない」

■枯木法成禅師が衆に示していわく(P63)
「真理を体得した諸先輩といえども、日々営々と向上に努力する事態があるのだということを知ることで初めて説法を行う力量が生れる。
そうした祖師が向上に努力していくとはどういうことか言ってみよ。
たとえていえば、そこらの家の子で、感覚器官も満足ではなく、認識や思惟も欠落していて、真理を把握する素質も無い。
抽象的な真理体得者というような観念に出会えばそれを抹殺し
’祖師’という観念に出会ってもそれを抹殺する。
天上の世界も収容できず、地獄も通れる門がない。そんな人物を知っているか」
間を置いて言う
「お前さんたちの前にいる自分は、頭の良い男ではないし、よく眠ることも眠れば、寝言なども結構いう」

次回は11月4日(土) この問答についての道元禅師の解説-P65-から。
東京大学仏教青年会の会場は回想され、坐禅室もトイレもきれいになり、大変心地良い。
ありがたいことです。
by doutetsu | 2006-10-23 02:36 | 赤心会ゼミ録

黙照禅と看話禅 酒井得元師論文

10月7日の赤心会の後、淡路町を歩いていて古書店を見つけ、吉川弘文館「道元禅師と曹洞宗(日本仏教宗史論集第8巻)」を入手した。
体系だった学問をしておらず宗史に無知な私には興味深い論文が多く、嬉しい。
本書2つめの論文が、酒井得元師が黙照禅と看話禅をとりあげ、白隠禅師を論駁した『禅における偏向』である。
17・8世紀の白隠禅師が口を極めて「寂黙枯坐」すなわち道元禅師流の黙照禅を罵倒していることを知った。本論分は、そうした看話禅側に対して、仏教本来の無為法ではなく、有為法を契機として、凡夫が自己の理想像へ向けて為にする努力をし、結局自己陶酔の独善に陥らざるを得ないものであると論駁する。
西嶋老師の指導により、公案も、数息も無い、ただ坐る坐禅を習ってきた私たちは、頭で考える、何かを狙って行動を統制するという、日常で嫌になるほど体験していることを坐禅に持ち込むことはバカバカしいと、思う。
しかし、それに専心、目を剥き、歯を食いしばり、非日常の異常体験をねだってハアハアしてる人たちもいるらしい。
一方で、「恍惚感による実存不安の乗り越え」が通常の「宗教」の機能のひとつであろうと私は思う。だからそれを提供する「宗派」を否定はしない。
ただ、原理的な解決にならないそうしたシステム以上のものを仏教は与えてくれると思っている。
「仏道を特殊化して錯乱せしめる白隠師は(略)「無事これ貴人」を説く臨在大師をも誹謗したもの」とある。臨済派が皆、そうではないということだ。
論駁の構成は緻密に思える。200年前にからんできたのはあっちだし。
反対当事者からは再反論もあろう。それでも、能所を分かたず、分別を容れず、修行の確かさに証せられる、黙照の坐禅とは階梯が違うのでおそらく噛み合わないのだな、と思った。
両者は「同一富士山を登る登山口の相違」ではまったくない、と酒井師。
忘れていたが「公案でも数息観でも瑞息観でも、いずれ宝蔵はひらける」と言う曹洞宗僧侶と昔会った。それらを使い分けて坐禅の指導をしている、という曹洞宗寺院のホームページもある。
自分の師に即してのことだろうが、「龍蛇を弁ぜず」の類ということにならないか。
本論文中に引用されている面山和尚の、’道元禅師が用いていないことは、天下挙げて用いたとしても自分は用いない’の発言は、西嶋老師とまったく同じ。
広範に及ぶ道元禅師のテクストの外側に出ようとする必要は、無いということだろう。
最終節に永平広録より
「いまだ仏道の通塞を明らめず空しく至愚の独居を守るは、豈に錯に非ずや」
の語がひかれている。
サンガの重要さを思い返した一文だった。
by doutetsu | 2006-10-15 15:12

2006年10月7日 『坐禅箴』 『仏向上事』

昨晩の大雨があがり、気持の良い秋晴れの午後
45分の坐禅の後、講読

テキスト現代語訳正法眼蔵第5巻 『坐禅箴』 最後まで
p42より

道元禅師が唯一最上と評する宏智禅師の坐禅箴の引用と解説、最後の部分
前回までが、
「事に触れずして知り、縁に対せずして照す」
の語をはじめとした坐禅の境地の説明部分。
残りの2文は、理屈では説明が徹底しないので、具体的なものを象徴として示す部分。
「水、清くして底に徹す、魚の行くこと遅遅たり
 空、濶(ひろ)くして、鳥の飛ぶこと杳杳たり」
道元禅師はこの句の「水が清く、空が濶い」とは、実在のどんな水とも空とも異なる際限の無い清さ、ひろさであり、それが坐禅の具体的な境地である、と解説する。

そして最後に自撰の「坐禅箴」を挙げる

『仏仏の要機、祖祖の機要
不思量にして現じ、不回互にして成ず・・・』

釈尊以来の最大事である坐禅の境地は、考えるということなしに現実化し、複雑さのかけらもなく目の前にあらわれる

その境地は自分になんの挟雑物もなく密着し、自ら体験するものである。
正しいとか誤りだとかの区別を超越して体験するものであり、
なにかのタメにする意図を持たずにただ坐るのである。

『水清くして地に徹し、魚行きて魚に似たり
 空濶くして天に透る、鳥飛んで鳥のごとし』

かぎりない境地のなかを魚は魚らしく泳ぎ、鳥は鳥らしく飛ぶ。
人間が人間らしい本来の姿に立ち返った状態が坐禅の姿である。

宏智禅師の坐禅箴に不足があるわけではないがさらにこのように言ってみるべきである、と、締めくくられる。


宏智禅師の坐禅箴が坐禅の心境を指し示したものだとすれば、道元禅師のそれはその境地がまさに現前する状態を指し示し、補完したものと思われる。

少し時間が余ったので、次の『仏向上事』の巻 
冒頭の、洞山良价禅師と僧のやりとりまで読んで終えた。

次回はテキストp53から。
by doutetsu | 2006-10-08 15:47 | 赤心会ゼミ録

西嶋老師 「中論」改訂版出版/『米寿』祝賀会

今年6月、西嶋愚道和夫老師が近年改訂に取り組んでこられた竜樹尊者著「中論」の現代語訳が完成・出版されました。また、11月に老師は米寿(数え年)を迎えられます。
老師のご指導を受けた方々が集い「中論」出版と老師の米寿をお祝いするとともに、多年にわたるご教導に感謝を捧げる昼食会を開催いたします。

 ■日 程:11月25日(土)
 ■会 場:如水会館
 ■時 間:11:30~14:00

当日は久しぶりに先生に小講演をお願いしています。
すでに各地から参加のお申し込みがありますが、10月14日まで受け付けますので、これからご希望の方は幹事までご連絡ください。

eiki.yanagimoto@gmail.com
by doutetsu | 2006-10-08 15:06 | 西島老師について