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「正法眼蔵大悟」 悟れば迷わないわけではない。かといって...

坐禅をしているというと「悟った?」と冗談半分で聞かれることがある。悟るために坐禅をする、というのは道元禅師のいうところ根本的に間違いなので、まあ笑って答えないことにしている。
「大悟」の巻。簡潔な文で2回、3回と観点をシフトアップしながら恐ろしいほど綿密な論を展開する道元禅師のテキストの真髄が垣間見える巻である。
まず冒頭は大悟についての総論。『いづれの情無情か生知にあらざらんと参学すべし。生知あれば生悟あり、生証明あり、生修行あり』 すべての生物も無生物も生まれながらに真実を知る素質がある。その素質があるから真理の把握=悟もあり、その体験があり、実践がある。

次に臨在禅師を引用し解説。
臨在禅師は『大きな唐の国で、悟っていない人間を探しても一人も探し難い(一人不悟者難得)』と語った。道元禅師はまったくその通り、としたうえでさらに臨在に聞いてみようという。『不悟者難得のみをしりて、悟者難得をしらずば』まだ不足である、と。言葉のレッテルとして悟ってる悟ってないと言っても意味が無い。簡単に割り切れない現実を見極めることができてこそ「仏祖=真実を体得した人」である。

その次は華厳寺宝智大師の問答と解説。
大師に僧が「真理を体得(大悟)した人が、逆に迷う(却迷)ときはどんなもんでしょうか」と質問した。この問いが素晴らしい、として、解説している。大悟の人とは、もとからそうなわけでも、よそで大悟してとっておいたのでもなく、ねじりはちまきでひっぱてきたのでもないが、かならず人は大悟する。『不迷なるを大悟とするにあらず』=迷いがないことが悟りというわけでもない。その次が念が入っている。だからといって悟りの材料にしようと思って迷ってみようとしてはいけない、とクギを刺す。
大悟とは煩悩を煩悩として認識すること(認賊為賊)であり、却迷とは自分の本質を自分の本質として捉えること(認子為子)だ、と。
さらに加えて。
『多処添些子を大悟とす。少処減些子これ却迷なり』 ゆたかにあるものにわずかを加えるのが大悟であり、残りわずかなものから減らすのが却迷である。
ゆたかにあるものにさらにわずかずつ加える。これは坐禅の実感に近い。

かつて西嶋先生はここまで提唱されたあと、自分は悟ったから酒を飲んでも酔わない、などということはありえない、と補足されたのだった。
by doutetsu | 2006-05-21 06:21 | 赤心会ゼミ録

「神通」の巻終わり われ常にここにおいて切なり

5月6日東大仏青赤心会。4回に分けて読んできた正法眼蔵神通の巻を終えた。仏の神秘的な能力とは人間の日常の行いを意味する。その教えの最終的な解説。
『その六神通は、六入を無迹にあきらむるなり』 六入(ろくじゅ)とは眼耳鼻舌身意の感覚器官または色声香味触法の感覚の対象。それらをありのままにとらえ、動揺しないことである、と。
「一切有無の諸法(形あるもの無いもの、価値のあるもの無いものの一切の実在)」をありのまま受け止め、貪らないこと。貪らないことは汚さないということ。またそれを別の言葉でいえば、ごくあたりまえの心である。
『不貪染は不染汙(ふぜんな)なり。不染汙といふは平常心なり。吾常に此(ここ)に於いて切なり』
西嶋老師は提唱録で【自分はいつでも現在の瞬間において一所懸命であるということが「平常心」であり「不染汙」である。だから平常心といっても、いつものんびりと落ち着いているということではない】と解説されている。

身の回りのものや出来事に動揺してしまう私たち。「動揺せず、平常心で、真剣な瞬間」というのは考えると難しい。
ただ坐禅をすると「動揺せず平常でかつ真剣な瞬間」を実感することができる。
「神通」の実感もまた、坐禅の実践によって得られるものだった。
by doutetsu | 2006-05-07 10:02 | 赤心会ゼミ録