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5月7日22巻「仏性」第3回

仏性についての道元禅師の様々な解説が進む。今回のポイントを復習します。
■現代語訳31ページ。第7節目
中国の第六祖大鑑慧能禅師が五祖大満弘忍禅師をはじめて訪ねたときの会話
五祖「どこから来た」
六祖「五嶺の南から来ました」
五祖「なにをもとめてきた」
六祖「仏になろうときました」
五祖「南方の人間に仏性はない。どうやって仏になる」
■この対話の解説が次の32ページ、第8節。
五祖の最後のことば、「嶺南人無仏性」は「嶺南人に仏性がない」とも「ある」ともいわずただ「嶺南人無仏性」と言っている。
これは、あなたは「仏性」というコトバでとらえられない、「仏性」と呼ぶのももったいない尊いなにかをすでに備えている、ということだという。そうして、キーワードとなるのは4行目。
「仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり
ほとけの状態になったときにはじめてほとけとしての性質が同時にあらわれる。
仏性がなんであるか、またひとつ解説が行われていることになる。
■次の9節は、7節の五祖の最後の発言に対する六祖の答を挙げる。
六祖はいう「人有南北なりとも、仏性無南北なり」
道元禅師はこの言葉には、「人は修行をして仏になることはあるけれど、仏性と言う人間が本来持っている性質は仏道修行と関係なく常に備わっている」という概念が含まれている。それを六祖はわかっているのか、と言う。「悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん」これは難しい。本巻冒頭の釈尊の語、一切衆生悉有仏性 の「有」は、あるとかないとかいう相対関係を超えた絶対の無と同じものでないことがあろうか、と西嶋先生は解釈する。
そして次に、道元禅師はさきほどの六祖のことばの意味を「人間には物質的実在なので南北の区別があるが、仏性は空虚にして融通無碍なものだから南も北もありません」と切り返したのだ、と取るのは「無分の愚蒙なるべし」と断言する。
仏性はかたちのない、霊的なもの、と取っては誤りらしい。
■10節は引き続き伝燈録からの六祖発言の引用。「無常者即仏性也」
仏性は変転常ないものである。では有常=変化しないのはわれわれの日常の善悪の判断、分別の心である、という。変化をするのが仏性。人間の生活はどうにでも変わる。ある意味それが尊い。固定的な尺度、分別的理性に拘束されることは仏性ではないのだ。
者小量身也、者小量作也」 仏性=ほとけとしての性質とは、ちっぽけな体で一生懸命生きていく、日常生活の動作そのものである。
そしてまた言う。草も木も、人も物もからだも心も、山も河も無常=変転きわまりないものであるのは、それが仏性だからなのだ、と。
by doutetsu | 2005-06-06 00:19 | 赤心会ゼミ録