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4月30日「仏性」2回:それは名づけようのない本質。

連休のなか日。私を入れて7人が集まり、45分の坐禅のあと、講義室に移った。
■22巻「仏性」第4節から。
12祖(釈尊の初代後継者から数えて12代目)の馬鳴尊者が13祖のために「仏性海」<真理体得者としての性質によって成り立っている世界>を説明していった。
山も河も大地も、みなそれによって成り立ち、我々人間の最高の境地や神秘的な能力もそのおかげで現れるのだよ。
この引用に、解説を加えていく節。
世界はまさに今この瞬間、「仏性」界の顕現である。山や河をみることは仏性をみるのと同じ。またロバや馬の口先を(今ならバスや自転車や交差点を)みることでもある。しかも、「仏性」が「世界」のウラにあるのではなく、世界がそのまま仏性界なのであって、そこにはスキ間がないのだから、本質と投影とかなんとかそういう構造化のリクツに足をとられてはならないぞ。

■第5節
中国の4代目の祖師、大医禅師が5代目の祖師である大満禅師が約束どおり生まれ変わって7歳になり、道に出会ってかわした問答。すべて漢文のままの引用だから読み下しの練習になります。
大医(あたまのカタチが珍しく優れた子どもだなと思い)「お前の姓は何という」<汝何姓>
大満「姓はありますが、普通と違います」
大医「それは何の姓か」<是何姓>
大満「仏性です」<是仏性>
大医「お前に仏性は無い<汝無仏性>」
大満「仏性というのは有無を超えたありのままのもの。だから無と言うのですね」<仏性空故、所以言無>
大医はこの子どもが法器(宇宙秩序を湛えるうつわ)と知ってお付きの弟子にした。

■第6節
上記の問答に対する道元禅師の解説。
難しいこの「仏性」の巻の中でもここはかなりの難所ではないか。一例。
『四祖いはく、是何姓は、何(が)は是(ぜ)なり、是を何しきたれり、これ姓なり。何ならしむるは是のゆえなり、是ならしむるは何の能なり。姓は是也何也なり』
ここで放り出さずに、西島先生の訳にしたがって、
『是』=われわれの具体的本質
『何』=概念的に表現できない、名づけようの無い何ものか
として我慢強く読んでいくと意味が通ってくる。

本質は概念的にはとらえられない。名づけようのないものとしてとりあげることはでき、それに名前をつけることもできる。またその本質のおかげで名づけようの無い何ものかになっている。本質を「存在」させるのは名づけようの無い何かという指標のおかげでもある。

後半では「無仏性」を「仏性が無い」という通常の使い方から、“仏性という名をつけて呼ぶことさえもったいないような尊い何か=仏性”という意味にステージアップする。

★正法眼蔵に頻出する文言として、
『Aは「A」ではない』
という修辞がある。
また、今日やった第4節には「会取し不会取するなり」=「理解し、不理解すべきである」と出てくる。
この2者は同種ではないが、「否定による超越」という類似をもっている。
キーになるのは、本質は言葉で特定せざるを得ないが、言葉では説明し尽くすことは不可能である、という主張。
言葉や概念で分かった気になった瞬間に外すのだぞ、という強いメッセージと解すべきだろう。
by doutetsu | 2005-05-02 00:30 | 赤心会ゼミ録