カテゴリ:赤心会ゼミ録( 66 )

11月の「坐禅と正法眼蔵」研究会

11月4日(土)
14時半より45分坐禅。
次に講義室で西嶋老師の提唱音声を聞きました。
テキストは『現代語訳正法眼蔵 第3巻』
まず「18.正法眼蔵 心不可得」の続き、テキスト81ページから最後まで。
そのまま提唱は次の巻、まったく同じタイトルの「19.正法眼蔵 心不可得」に進みました。

このふたつの巻は後書きでは同じ年の同じ日付がになっている。
前の巻では「衆ニ示ス」とあり、後の巻では「興聖宝林寺ニ書ス」とある。
前の巻は道元禅師が実際にやられた説法の速記であり、
後の巻はその日の説法のために道元禅師が書かれた原稿ではないかと考えられる
とのこと。
今回の提唱(音声)で「19.心不可得」のはじまりの部分、テキスト90ページまで読み(聴き)ました。

次回は11月18日(土)。
同じく坐禅ののち、テキスト92ページから提唱を聴いていきます。


by doutetsu | 2017-11-17 14:58 | 赤心会ゼミ録

「正法眼蔵 嗣書」終了 ’法は時間を超えて’

17日本郷。まず45分間の坐禅。
講義室で「正法眼蔵17.嗣書」3回目の講読。
嗣書とは、釈尊以来、代々真実を得た「仏祖」の証として師から弟子へ伝えられた書状。
道元禅師が日本では見ることのできなかった嗣書を宋で何種類か目の当たりに見た見聞が感動とともに記されています。

ある寺院を尋ねたところ、住職が話の途中でやおら嗣書を見せてくれる、と言う。
親しい者にも侍者にも見せない嗣書をみせよう、というのは。
数日前に住職の夢に大梅法常禅師が現れ、梅花の枝を差し出しこう言った。
「船で渡って来た真の人物がいたら華を与えるのを惜しんではならない」
道元禅師がその人だと確信した住職は嗣書を見せ、さらに自分から嗣法したければそれも惜しまない、と申し出ます。
道元禅師は「仏祖の冥資にあらざれば見聞なほかたし」と、感涙で袖を濡らします。
(その機にあらず、と思われらしく、嗣法は受けませんでした)
この話は
「帰国よりのち、いまだ人にかたらず」とのこと。

道元禅師の真の師となった天童如浄禅師が、
「釈尊と迦葉仏(伝説の過去七仏のひとり、釈尊の前に置かれる)とで法の授受が行われた」と言うのを聞いて、道元禅師が質問したいきさつが末尾のエピソード。
「太古の昔の祖師に釈尊が嗣法したというのはおかしいのでは?」
と(率直に)質問します。答は
「なんぢがいふところは(略)わが仏仏嫡嫡のみちにあらず」
仏教の説く真実が釈尊から始まったとするなら、今までわずか40代。新興の教えということになる。しかし法は永遠の真実である。
だから釈尊から(伝説の)迦葉仏に嗣がれ、迦葉仏から釈尊に嗣がれたと学ぶのだ。
「道元そのときはじめて仏祖の嗣法あることを稟受するのみにあらず、」
さらに、古い狭苦しい境地を脱することができた、と語られます。

本巻は1241年に「記ス」書かれ、1243年にあらためて「華押(花押)」サインがされています。
衆僧に説かれることもなく、道元禅師が書きとどめ、正法眼蔵の中でこれのみ華押がなされているそうです。
道元禅師にとってなんらか特別な記述書面だったのでしょう。
※※※

釈尊以来、ましてや過去七仏以来の「真の法統」が書面で残っている、というのはフィクションに違いありません。
しかし少なくとも千年を超える期間に実在した真摯な仏道修行者の名前が列記されたものではあると思います。
(西嶋老師より戴いた私たちは、その全員のお名前を筆写しています)

原始仏典から推察される「釈尊の教え」のありようと、中国経由で日本にわたり「真実」を求めて磨かれてきた伝統仏教の相違。学ぶひとりとしての実感値。
最近さまざまに取り上げられるようになった、かなり難しく、同時にはなれがたいテーマです。
by doutetsu | 2017-06-23 07:37 | 赤心会ゼミ録

11月19日「伝衣」

45分の坐禅の後、講義室で「正法眼蔵」の講読。
テキスト「現代語訳正法眼蔵第2巻」の125ページ、「一三.伝衣」の第1回。
前巻「袈裟功徳」と同じく、老師の提唱音声を聞いていくことにしました。

テキスト冒頭「本巻の大意」
『伝衣とは<略>袈裟の伝承または袈裟そのものを意味しているが、本巻の内容は袈裟功徳の巻のそれに酷似しており、全く同文の箇所もかなりある。しかも<両巻の奥書は>全く同一日付になっている。ただ袈裟功徳では「衆ニ示ス」となっており、伝衣では「記ス」となっているから、袈裟功徳の巻は、当日における説法の筆録であり、これに対し伝衣の巻は、説法のための草稿ではなかったかと考えられる、しかしこの仮説の真否は将来における学者の細密な検討に待ちたい』

P127
俗なほいはく、その人の行李をみるは、すなはちその人をみるなり。
いま仏衣を膽礼せしは、すなはちほとけをみたてまつるなり。
p130現代語訳
俗世間においてさえ、「その人の行動を見るということは、とりもなおさずその人そのものを見ることである」と言っている。
<したがって>いま釈尊の制定された袈裟を拝見し、礼拝し得たということは、ただちに釈尊そのものを拝見し奉ることである。

提唱ではこの行李=行いについての考え方は非常に大切、と補足されています。
『人間をみるうえで、あるいは仕事においても『口というものと何をやっているかということとどっちが基準になるかといえば、何をやっているかということのほうが基準になるわけです』

この日は本文128ページまで(訳文132ページまで)。



なお、次回12月3日は当幹事が出席できないので、有志坐禅のみとなります。
ただ英語の会幹事でもある幹事会員の方が、老師音声データを持参されるので、当日参加で希望者があれば別巻を聴講するようにしていただけるとのことです。
by doutetsu | 2016-11-22 05:56 | 赤心会ゼミ録

6月4日「袈裟功徳」

45分間の坐禅の後、「袈裟功徳」1回目。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳 正法眼蔵 第二巻」

今回、試みに西嶋老師のこの巻の提唱の音声を通しで聞くことにしました。
ちなみに袈裟功徳は「道元禅師と仏道下巻巻末リスト」では
『集諦のグループ-「伝統」-滅』
すなわち、
客観的事物をとりあげ、仏教伝統の、現実を説く、巻
と位置づけられています。

提唱(録音)冒頭の老師の本巻の解説より
『仏道においてはそういう心とか物とかいうものを二つに分けること自体が現実を見損なう、われわれが住んでいる世界と言うのは物だけでもない、心だけでもない、そういうものが二つに分かれない以前の一つの非常にはっきりした実体がある/
仏教というのは形式も重んじるし、中身も重んじる。形式と中身が一体になったものが法だから/
そういうことの一つの現れが袈裟にも現れてきている/
だから外側を大切にすることによって中身を大切にすることにもなるし、中身を大切にするということは、外側を大切にすることでもある。そういう趣旨から書かれた巻の一つがこの「袈裟功徳」の巻ということになろうかと思う』



テキストp58まで、進みました。
テキストでは29節におよぶ長い巻の3節まで。

お袈裟さは釈尊以来、代々祖師方に伝えられた尊いものである。
無数の仏が受持し、その功徳を学んてこられた。
「たとひ自己なりとも、たふとぶべし」
だから自分がお袈裟をかけたならば、仮にそれが自分自身であろうともお袈裟をかけたというだけで尊敬に値するものになる。
中国に仏教が伝わって以来、多数の者がインドと中国を往還したけれども、サンスクリットの経本を伝来することはあっても、仏教の奥深い所は釈尊以来の正当な伝承者である祖師を通じてのみ伝わった。
「浣洗の法、および受持の法、その嫡嫡面授の堂奥に参学せざれば、しらざるところなり」

■■

次回は6月18日(土)、P60「大乗義章」引用部より。
by doutetsu | 2016-06-05 16:04 | 赤心会ゼミ録

5月21日「有時」の巻 読了

45分の坐禅の後、「有時」の巻2回目。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳 正法眼蔵 第二巻」

冒頭で西嶋老師が1978年12月28日にこの巻を提唱されたときの冒頭の音声を再生し、皆で聞きました。
老師のなつかしい朗々たる声が響きます。
計算すると59才になったばかりの頃ですが、とてもそうは思えないほど老成し、確信に満ち、説得力のある、まさに「老師」のお声でした。

『「有時」というのは「あるとき」。<略>われわれの人生というのは何かというと、こういう-行いと関連した-「あるとき」という時間の連続です』
時間を過去、現在、未来と続く一本の線のように考えると、抽象的には理解されるがわれわれの人生における本当の時間とは別のものになってしまう。時間・存在・行為について、実存主義など20世紀の哲学でも語られるような高度な思想を、釈尊の教えそのものとして道元禅師は説かれた。
難しい巻であるけれども、一つにはわれわれの常識的な考え方とちょっと向きが違うから。
われわれはなぜ坐禅をするか。
『坐禅をやることによって従来の考え方とは違う、本当の意味での人生というものをとらえるような考え方に移っていくということがあるわけです』
■■
テキストP30
「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」
時間とは抽象的に空に存在するものではない。何らかのことが行われている、何らかのものがあるという事実と関連してのみ時間は存在する。また時間と関係ない存在はない。「ある」ということは時間と関係してだけある。
P31
「正当恁麼時のみなるがゆえに、有時みな尽時なり、有艸有象ともに時なり」
時間とは今この瞬間しかない。瞬間、瞬間の時間が一切の時間にほかならない。かつ、存在する事物も現象も時間においてある。
P38
「おほよそ羅篭とどまらず、有時現成なり」
人生を束縛する煩いは限りがない。それらもすべて現実の時間、瞬間においてある。
「いま右界に現成し、左方に現成する天王天衆、いまもわが尽力する有時なり」
あるいは右に、あるいは左に出現してわれわれを守護してくれる天王や天使も、われわれ自身が常にベストを尽くしている現実の時間があればこそ出現する。
日常生活のわずらわしいことをコツコツしのいでいくのが人生。思い通りにならない人生の中でも、ふと恵まれている、何かに助けられていると感じることがあるが、それは人間が現在の瞬間を生きているから。

提唱録を読むと「有時」の巻の終わり近く、西嶋老師はこう話されました。
『いいとか悪いとかいってみても、そんなことより大事なのは自分自身が一生懸命生きているかどうかということ。
『仏道がなぜ必要かといえば、そういう点で自分の人生というものが持っておる意味というものをつかむということがある。それは偉いとか偉くないとかいう問題を乗り越えた、自分の生命というものの瞬間、瞬間の現れに気がつくかつかないかということに尽きる』
■■■
以下は、2回にわたる「有時」の読み取り後のディスカッションでの発言です。
「現代の科学や思想を釈尊や道元禅師が先取りしていたように見えることはある。いっぽうその‘先進性’を教えの正しさに援用するのは贔屓の引き倒し」
「実数の時間軸と虚数の空間軸からなる複素数平面における(瞬間×存在)の連続が生命ではないか」
「時間が瞬間にして永遠とは、長さを持たない点の無限の集合が線分になるようなことか」
「正法眼蔵は各巻ごとに、思想・教え説いた巻(仏)、宇宙・世界を説いた巻(法)、生活・戒律を説いた巻(僧)という力点があるように思える」
「西嶋老師は全95巻を苦・集・滅・道で分類されていた(道元禅師と仏道下巻)」

などなど。
by doutetsu | 2016-06-05 15:03 | 赤心会ゼミ録

『礼拝得髄』後半 75巻本からは削除された「女人禁制」批判

2月6日
45分間の坐禅ののち「八.礼拝得髄」後半。

この巻で道元禅師は、
真実を得たものであれば誰であってもその得道、得髄に礼拝すべきである。
女性だからといって軽んずるのは全く誤りである、と説かれます。
188ページ「また和漢の古今に帝位にして女人あり」から。
皇帝になった女性が国土を所領し、人々が臣下となるのは、皇帝の位を尊ぶから。
比丘尼を敬うことも僧侶として釈尊の教えをはっきりつかんだときに敬うのである。
「またいま至愚のはなはだしき人おもふことは、女流は貪婬所対の境界にてありとおもふこころをあらためずして、これをみる」
女性は欲望の対象とであるからこれを忌み嫌う、というのは愚のきわみ。
そんなことを言うなら「一切男子もまたいむべきか」
男だろうと女だろうと幻だろうと、あらゆるものが情欲の対象・機縁になる。
「これみなすつべきか、みるべからざるか」
「おほよそ境をみてはあきらむることをならふべし、
何にかぎらず、何かにぶちあたったら逃げずにそれが何なのか学ばなくてはならない。

「日本国にひとつのわらひごとあり」
巻の終盤で、に道元禅師は「女人禁制の結界」を、女性というだけで排除するのは全く的外れなものと批判します。
権威が決めたことだから、古くからのしきたりだから、などという説明は
「わらはば人の腸(はらわた)もたえぬべし」

つまるところ
「一切衆生みな化をこうぶらん功徳を、礼拝恭敬すべし」
西嶋老師は解説されます。
釈尊はすべての人々を救おうと教化された。あれは救うけれどもこれは救わない、ということではない。
誰でも釈尊の教化を受けうるということ、そのことを敬うべきである。

なお、この日読んだ本巻の後半は現在の岩波文庫ではこのように説明されています。
「以下は75巻の正法眼蔵には諸本いずれも欠き、ただ永平寺に伝わる秘密正法眼蔵の中だけに残ったものである。恐らく、75巻の正法眼蔵が整理された時、削られたものであろう」
なにか不都合があったのでしょうか。

次回、2月20日は「九.正法眼蔵 渓声山色」に入ります。
by doutetsu | 2016-02-11 23:08 | 赤心会ゼミ録

『礼拝得髄』 真実の前の平等/男尊女卑を嗤う

1月16日、今年最初の赤心会は、坐禅ののち「礼拝得髄」の講読。(テキスト「現代語訳正法眼蔵」169ページ)
この巻の題名自体は達磨大師と慧可大師の故事から(景徳伝灯録)採ったとされます。
すなわち、達磨大師が4人の弟子に各々その会得したところを問い、最後に慧可大師がただ礼拝して立ちつくしたところ達磨大師が「汝わが髄を得たり」と肯定したというエピソード。

過去の西嶋老師の提唱によれば大意は以下のとおりです。
「礼拝得髄」はそのまま読めば、得髄を礼拝するということ。得髄というのは髄を得た、真髄を得たということ。真髄を得た人のことを得髄という。真実を得た人であれば、子供であろうと女性であろうと、動物であろうと真実を得ているというそのことのために礼拝し、教えを聴くべきである、ということを説いた巻。

道元禅師は次のように語り起こします。
最高で均衡のとれた教えを実践する際には
「導師をうること、もともかたし。その導師は
男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。
古今人にあらず、野狐精にして善知識なるべし」
真の指導者には男も女もなく、時代も関係ない。
自分をコントロールし自由自在に動ける。ユーモラスでもあり厳しくもあってひとつのレッテルで割り切れない。よくわからないすごみがあって、しかも人を十分教える力を持っている。
そういう師である。
そしてそれは
「汝我渠(なんじ、われ、かれ)なるべし」
あなた方自身であり、自分自身であり、あの人でもある。

以下、真実を説く師に出会ったなら、性別、身分、年齢、そして過去の行いの是非すら気にしてはならず、ただ礼拝問法すべきことが繰り返し説かれます。
力ある男子僧侶が礼拝した真実を得た師の例として、末山尼、妙信尼ふたりの尼僧にまつわる話をひいて解説される。
(妙信尼が、教えを乞う17人の僧に「前においで」と呼び寄せ、近づいてきたその瞬間、真実の教えをぶつけたくだりは西嶋老師の解説によって鮮やかに解き明かされる。提唱録1巻下p112)
出家をしていない、夫婦生活を営み、世間の苦労にまみれている居士であっても真実を得た者には僧侶があつまって教えを乞うのが当然。
「たとひ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず、うやまふべからず」
と断じ、この仏道のしきたりを伝えられていなものはあわれむべきである、と言われる。
道元禅師40歳の信念が熱く述べられた巻といえます。
以上この日はテキスト187ページまで。
75巻本の礼拝得髄の巻には、ここまでしか採録されていない。秘密正法眼蔵28巻には後半部分もあり、95巻本にはその全体が編入されています。
この後半は女人禁制の結界というもの、そのしきたりを徹底的に否定し、あざ笑う記述となっています。
■■
懇談では「7歳であっても真実を得た導師であれば礼拝を、ということだが、さてその人が真実を得た人かどうか、どうやってわかるのだろうか」という話になりました。
この巻はそれについては語っていません。
少なくとも教員免許のように役所かなにかが定めた基準があるようなものではない。真剣に求める人しか、修行しているときにしか、そしてその人にとって、でしか出会えないもののではないか。などなど。
道元禅師も西嶋老師も、生きて出会った宗匠で師と仰いだ方はひとりくらいしかいない。
この巻の主眼は、「礼拝するか否かは真実を得たかどうかだけで決まる。世俗の地位はもちろん宗門の階梯(管長だの大僧正だの)は無関係。いわんや性別になんの差があろうか」その主張ではないかと思われます。
道元禅師の主張は現代にあってなお先鋭的といえます。
■■■
次回、講読は2月6日(土)。礼拝得髄の後半、188ページからになります。
by doutetsu | 2016-01-18 23:50 | 赤心会ゼミ録

即心是仏/修行/イスラム国

12月5日(土)
坐禅室で45分の坐禅ののち、講義室へ。参集者は8名。
「六、正法眼蔵 即心是仏」を2回目で読了しました。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳正法眼蔵第一巻」。
最初に幹事のO氏より、ご自身が制作した冊子、「現代語訳正法眼蔵(普及版)第一巻」が配布されました。
正法眼蔵原文と西嶋老師の現代語訳を一文ずつ対照し、さらに「提唱録」からも適宜補足を引用した労作で大変読みやすい副読本です。



西嶋老師による本巻の大意解説<p125>
「仏教の説く真理を簡明に語る一つの言葉として、馬祖道一禅師等によってとなえられ、古くから支那において活用されて来たものの一つに、即心是仏すなわち「今日唯今の意識こそ真理そのものである。」という主張があるが、本巻はこの即心是仏という主張を疑り上げ、大証国師に関する説話を引きながら、道元禅師御自身の解釈を述べられたものである。」

内容を800字以内で要約すると次の通り。
巻頭の一文から。
『仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは即心是仏のみなり』
「今のこの心がそのまま仏そのもの、
仏教界の諸先輩が例外なしに保持して来た唯一のものはこれである。
仏教の本来的に重要な教えであるにもかかわらず多くの人に誤解されている。
不滅の霊魂が「仏」であるという誤解であり、これでは仏教ではない。
正しく把握し、実践してきたのは、仏すなわち真理を体得した祖師方のみである。
「即心是仏」の仏とは個々具体的な現実のなかで生きる仏。
『いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり』
「即心是仏」の心とはなにかといえば、心とは客観世界と同一のもの、客観世界のすべては心と同一のもの、ということ。

⇒意識は対象世界と切り離されては実在しない。
 いっぽう対象世界は個人の意識に映じられなければ実在しない。
 提唱録では次のように解説される。
 「いいかえれば主観と客観とは同時現成、同時消滅であり、
 主観と客観を切り離して、そのいずれかに重点を置く
 唯心論的乃至唯物論に対する仏教的な第三の立場を
 主張している<p273>」

この心を完全に認識体得したならば、世界は一変する。
しかもなおかつ、客観世界と同一の心とは客観世界そのものであって、さらに何かが付け加わるわけではない。
『しかあればすなはち、即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり』
心がそのまま仏である、ということの実質的な内容は、真理探究の心を起こし、修行し、真理を把握し、至福の境涯に達したもろもろの真理体得者を指すのである。
「発心修証」。真理を知りたいと願い、修行し、修行を体験すること。
(坐禅をすることは「発心修証」そのもの)
それが「即心是仏」が成立する必要十分条件である。
「即心是仏」を実践し示すのは真理体得者=仏であり、その仏は釈尊と同一の境地にある。



終了後は様々な話題が出ました。

正法眼蔵において「行い/修行」は常に重要であり難所では理解のための補助線となる。
坐禅の最中何をしているかといえば、自分の「存在」を感じている。
老師はやがて世界で仏教が絶対に必要になると言われたが、それは現在どうだろうか。
体系だった「釈尊の本当の教え」といったものを文献でたどることは原理的に不可能。
云々。

話題はイスラム国/IS、テロ、爆撃に及びます。

フランス語を学んでいるという参加者が、そのクラスでパリのテロ時の放送を聞いたときの話をして下さいました。
放送で、フランスでは自爆テロを意味する「カミカゼ」が連呼されていた。
ISの行いも、日本より少し狭いくらいという広大なその支配地を爆撃し続けることも、未来があるとは思えない。
ただ、思い起こすと終戦時小学校4年で竹やりを振っていた自分は、日本が負けるなどとまったく思っていなかった。神の国だと思っていたし、国のために死ぬのは当然だと思っていた。
「そこは同じですよ、だから」



次回は12月19日(土)
年内最後、次の「洗浄」の巻に入ります。
by doutetsu | 2015-12-05 20:58 | 赤心会ゼミ録

重雲堂式 「いまこれを本源とせん」

10月3日(土)

45分の坐禅の後、講義室にて。
テキスト西嶋和夫著『現代語訳正法眼蔵 第一巻』
「五.重雲堂式」

(本巻の大意)より
「道元禅師が宋から帰朝されて後、最初に創建された山城の国字治の観音導利興聖護国寺における坐禅堂である重雲堂の式則すなわち規則である」
西嶋老師は提唱で『他の正法眼蔵と多少性格が違うが、道元禅師の考え方を理解するうえで貴重な巻』と言われました。
95巻本の正法眼蔵にしか編入されておらず、従い現在の岩波文庫版正法眼蔵には入っていません。

坐禅堂における規則を21条にわたって示しており、その内容は概略以下のとおり。
・名利の心のある者を入れてはならない。真実を知りたいと願う者を入れよ。
・坐禅堂内の衆僧は和合し、いさかいをおこしてはならず、規則を守らなければならい。他人の非や自分の是をあげつらってはならない。
・出歩かず、専一に坐禅をしなくてはならない。
・出入、招き入れ、その他すべて堂主に伝えその指示に従え。
・坐禅堂内では禅についてであっても文字を目にしてはならず、念誦看経、行道等は禁止、数珠も携えてはならないし、綾織物を着てはならない。
・鼻をかむ、声を出す、堂の近くで話をするなどしてはならない。酒に酔っていたり、にらやねぎの匂いをさせて入ってはならない。
・中国の叢林のしきたりに即して坐禅し参師聞法せよ。
・短い一生を安穏に無為の坐禅に生きたいと願うべきである。

基底にあるのは、、
「日本における僧堂の正しいありようはここから始まる」
「当時(においても)みられた、仏道を名誉と利得の具とすることを一切廃す」
「坐禅以外の仏教行事や威儀具足は無用」
との意思。
叢林/雲堂とは只管打坐が目的であり只管打坐を成立させるためだけに保持される場。

興聖寺の落成は1233年、僧堂完成は1237年、本巻は1239年の道元禅師39歳の年に示衆されている。

「おほよそ大千世界のなかに正嫡の付属まれなり。わがくにむかいしよりいまこれを本源とせん」
我が国においては、この興聖寺僧堂が正しい仏教伝統の源となるだろう。

道元禅師39歳の宣明であると、考えられます。
■■
今回から、Oさんが、正法眼蔵原文と老師の現代語訳を対照する資料を作ってくださいました。
英語の会ではすでに使われていますが、日本語の会でも今後この資料を配布いただく予定です。
お陰様で当会参加者の正法眼蔵の学習はいっそう取り組みやすいものになると思います。
■■■
10月17日(土)は坐禅のみ。
10月31日(土)は次の「六.正法眼蔵 即心是仏」を読んでいきます。
by doutetsu | 2015-10-04 13:14 | 赤心会ゼミ録

7月18日「現成公案」 夏季休館へ

7月18日、夏休み前の最後の回で「現成公案」の巻を読み終えました。

■■

テキスト(西嶋和夫著『現代語訳正法眼蔵第1巻』)83ページ。
「三.正法眼蔵 現成公案」
本巻の大意より
「<略>現成公案とは行為に関連して現実世界にいきいきと躍動する宇宙秩序のことをいい、本巻は道元禅師の御立場からこの宇宙秩序を極めて端的に叙述されている」

本巻も非常に有名な巻であり、注・解説が多く行われている。
例えば「南直哉『正法眼蔵を読む』2008講談社」では「本書においては「現成公案」を中心に読む(p22)」としている。


西嶋老師は、この巻を独自の「四諦=仏教的弁証法」の視点で「明快に」読み解かれている。この巻において特に冒頭の4文にその観点が打ち出されているとされる。

「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
 【主観的/観念論的】
「万法われにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
 【客観的/唯物論的
「仏道もとより豊倹より跳越せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生(衆生)仏(諸仏)あり。
【行為論的】
「しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜に散り、艸は棄嫌に生ふるのみなり。
【現実】

余談だが、当ブロガーにはたいへん難解と思える南直哉著『正法眼蔵を読む』において、
「自他二元論の無効」「行いによる自己と世界の同時生成」「修行こそが現実性を保証する」
といった説明があり、これは西嶋老師の教えとおおいに重なる部分があるように思える。
複数テキストの表面的な類似が妥当性を根拠づけるものとはならないとしても、「正法眼蔵」に
「二元論の超越/行為の重視/修行がすべて(根拠・目標・当為・基準)である」
といった主張があることは間違いないように思われる。

■■

巻中には他にも美しく力強い、心に残る文章・フレーズが多い。

「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」
「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり」
「人の悟をうる、水に月のやどるがごとし、月ぬれず、水やぶれず」

我々が心身をあげて対象を見、聞きしても「かがみにかげをやどすごとくにあらず、水と月のごとくにあらず」とある。
魚川祐司氏が翻訳されたウ・ジョーティカ『自由への道』にも、世界をありのままに受けとめることは、恣意や無意識的選択がなくすべてを鏡にものがうつるように受け取ること、と説かれていた。

「人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり」
これについてかつて西嶋老師が
「仏道を実践し体験するということは、ひとつの行いに会いそれをやっていくだけだということです」
と解説されたことが強く印象に残っている。

■■

東大仏青の夏季休館のため、次回は9月5日からとなります。
テキスト97頁「四.正法眼蔵 一顆明珠」を予定しています。
by doutetsu | 2015-08-11 16:12 | 赤心会ゼミ録