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5月の予定

ご案内を怠り申し訳ありません。
(4月16日、23日は幹事都合により正法眼蔵の講読/共読は休止しました)

5月の予定は
5月7日(土)、21日(土)
14:30より45分坐禅、その後「正法眼蔵」を西嶋老師の読解に即して読んでいきます。

本日7日は「11.正法眼蔵有時」
テキスト:西嶋和夫著「現代語訳正法眼蔵 第2巻」
※貸出あり
※有志による、サブテキストあり
by doutetsu | 2016-05-07 08:49

ご命日

今日は128日。

1年前の今日、西嶋愚道和夫老師がお亡くなりになりました。

国内外で老師を慕う方たちは、それぞれ老師に対する思いを振り返りながらこの1年を過ごされたことと思います。

日本と海外の弟子達が各自の老師の思い出を文章にして、希望者は日本語・英語の両方で読める文集とするべく、有志が取り組んでいます。


合掌


by doutetsu | 2015-01-28 09:07

黙照禅と看話禅 酒井得元師論文

10月7日の赤心会の後、淡路町を歩いていて古書店を見つけ、吉川弘文館「道元禅師と曹洞宗(日本仏教宗史論集第8巻)」を入手した。
体系だった学問をしておらず宗史に無知な私には興味深い論文が多く、嬉しい。
本書2つめの論文が、酒井得元師が黙照禅と看話禅をとりあげ、白隠禅師を論駁した『禅における偏向』である。
17・8世紀の白隠禅師が口を極めて「寂黙枯坐」すなわち道元禅師流の黙照禅を罵倒していることを知った。本論分は、そうした看話禅側に対して、仏教本来の無為法ではなく、有為法を契機として、凡夫が自己の理想像へ向けて為にする努力をし、結局自己陶酔の独善に陥らざるを得ないものであると論駁する。
西嶋老師の指導により、公案も、数息も無い、ただ坐る坐禅を習ってきた私たちは、頭で考える、何かを狙って行動を統制するという、日常で嫌になるほど体験していることを坐禅に持ち込むことはバカバカしいと、思う。
しかし、それに専心、目を剥き、歯を食いしばり、非日常の異常体験をねだってハアハアしてる人たちもいるらしい。
一方で、「恍惚感による実存不安の乗り越え」が通常の「宗教」の機能のひとつであろうと私は思う。だからそれを提供する「宗派」を否定はしない。
ただ、原理的な解決にならないそうしたシステム以上のものを仏教は与えてくれると思っている。
「仏道を特殊化して錯乱せしめる白隠師は(略)「無事これ貴人」を説く臨在大師をも誹謗したもの」とある。臨済派が皆、そうではないということだ。
論駁の構成は緻密に思える。200年前にからんできたのはあっちだし。
反対当事者からは再反論もあろう。それでも、能所を分かたず、分別を容れず、修行の確かさに証せられる、黙照の坐禅とは階梯が違うのでおそらく噛み合わないのだな、と思った。
両者は「同一富士山を登る登山口の相違」ではまったくない、と酒井師。
忘れていたが「公案でも数息観でも瑞息観でも、いずれ宝蔵はひらける」と言う曹洞宗僧侶と昔会った。それらを使い分けて坐禅の指導をしている、という曹洞宗寺院のホームページもある。
自分の師に即してのことだろうが、「龍蛇を弁ぜず」の類ということにならないか。
本論文中に引用されている面山和尚の、’道元禅師が用いていないことは、天下挙げて用いたとしても自分は用いない’の発言は、西嶋老師とまったく同じ。
広範に及ぶ道元禅師のテクストの外側に出ようとする必要は、無いということだろう。
最終節に永平広録より
「いまだ仏道の通塞を明らめず空しく至愚の独居を守るは、豈に錯に非ずや」
の語がひかれている。
サンガの重要さを思い返した一文だった。
by doutetsu | 2006-10-15 15:12

生産性新聞 9月5日号「毎朝の坐禅」 転載

社会経済生産性本部発行の生産性新聞9月5日号「ほっとタイム」に掲載された原稿を転載。
知人の依頼で坐禅について何か、と言われ書いてみた。
1200字という制約で、やたら漢字が多く硬い文章になってしまった。
何より西嶋老師について書き足らなかったのが残念だが、この記事を見て何人かにでも関心を持っていただけるのならば、と思い掲載してもった。
■ ■ ■ ■
毎朝起きると、ベッドの横に置いてある丸い蒲団に腰を降ろし、庭に向かって坐禅をする。両足を組み、掌を重ねて親指の先をつけ、目は開き口は閉じ、背筋を伸ばす。
物音や目に入るものも、次々に心に浮かぶ事柄もそのままにし、追いかけない。後悔や不安にかられても、坐禅中は是非や善悪について考えない、という教えに従いただ姿勢を正す。10分20分と坐っていると、雑多な思いや感情の合間に、身心が静まる瞬間を実感する。30分たち、合掌して組んだ足をほどく。
それだけの坐禅を、毎日やる。二日酔いのときも、しみじみとつらさを噛み締めながら坐る。時間が無いときには10分でも、旅先や出張先でも坐る。なんとか毎日坐禅をするようになって約十年たつ。
父の葬儀に禅寺を借りたことで興味を持って読み始めた本のうち、これはと思った著者が東大仏教青年会で正法眼蔵の講義と坐禅指導をしていると聞いて参加した。西嶋愚道和夫老師とここでお会いしなければ、煩悩のカタマリのような私が、坐禅を続けるようにはならなかったと思う。
老師は、戦後東大法学部を卒業し、大蔵省、日本証券金融常任監査役と、実業の道を進みながら道元禅師の「正法眼蔵」全巻の精密な現代語訳を出版された。竜樹尊者の「中論」の梵語原典からの翻訳の他、「仏教・第三の世界観」等多数の著作があり、さらに外国人の弟子とともに出版した「正法眼蔵」英訳に続き、現在は「中論」の英訳、独訳に取り組んでおられる。
前永平寺管長丹羽廉芳禅師より嗣法された師家で、昨年までは顧問であった井田両国堂提供の市川ドーゲンサンガを拠点に、東大仏青、東方学院等各所で指導をされた。現在は外部での指導は引退され、86歳の今日、坐禅と著述の傍らブログを通じた日本語と英語による啓蒙を続け一人暮らしの日々を律しておられる。様々な教えを受けたが、企業の人事担当者の会で言われた「人間を技術的に操作しようとしないこと」という助言は仕事の折に思い返す。
「正法眼蔵」の奥深さ、美しさに魅せられる一方、坐禅を最も重視される老師の指導を受け、怠け者の私も毎日坐ろうと務めるようになった。師の教える坐禅は道元禅師の遺則だけに従う只管打坐で、肩を叩く「警策」も、公案も用いず、息を数えることもない。
現在、師の指導を受けた弟子の多くは、朝晩30分のこうした坐禅を日課としつつ、それぞれ坐禅会や勉強会を継続している。本郷三丁目の東大仏青でも、有志のサークル「赤心会」の名で毎月奇数土曜日の午後、坐禅と正法眼蔵研究の会を継続している。
坐禅の体験は言葉で説明できない独特のもので、常に新鮮。未体験の方は西嶋老師のブログなどを参考に、自宅で坐禅を試されると、各人各様の「実感」があると思う。
【ブログ集】西嶋老師ドーゲンサンガ赤心会幹事
by doutetsu | 2006-09-10 15:36

2006年洞慶院坐禅会・速報

8月26,27日 今年も静岡羽鳥の洞慶院での坐禅会が開催された。
昨年より西嶋老師が参加なさらなくなり、日程も1泊2日に短縮している。
それでも今年も19名が参加し、40分×7柱の坐禅、作務、懇談会のスケジュールをこなした。
関東、関西、山口、高知から、西島老師の指導を受けた人々が参加し、語り合った。
山中の由緒ある名刹で、染み入る虫の声を聞きながら坐禅をする実感は、格別のものであった。
来年夏の再会を約して、解散した。


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by doutetsu | 2006-08-27 21:48

楽しく、きちんと、生きて、死にたい

私が、仏教の教えに助けれられながら、生きていくうえで願っていることを一言で言うと、こうなると思う。
仏教は実在論であり、実在する世界を肯定するものであり、因果関係を信じ、来世や輪廻を信じず、日常の行いを重視し、とらわれのない生き方を最上とする。
生まれたとたんに死へ向けた時間が始まる人生において、苦は避けられない。しかし自らと他の人間の存在を肯定しなければ生きられない。
楽しく、きちんと、生きて、死ぬ。
この人間にとっての唯一最上の可能なあり方を、仏教は目指させてくれる。
by doutetsu | 2006-04-16 23:11