黙照禅と看話禅 酒井得元師論文

10月7日の赤心会の後、淡路町を歩いていて古書店を見つけ、吉川弘文館「道元禅師と曹洞宗(日本仏教宗史論集第8巻)」を入手した。
体系だった学問をしておらず宗史に無知な私には興味深い論文が多く、嬉しい。
本書2つめの論文が、酒井得元師が黙照禅と看話禅をとりあげ、白隠禅師を論駁した『禅における偏向』である。
17・8世紀の白隠禅師が口を極めて「寂黙枯坐」すなわち道元禅師流の黙照禅を罵倒していることを知った。本論分は、そうした看話禅側に対して、仏教本来の無為法ではなく、有為法を契機として、凡夫が自己の理想像へ向けて為にする努力をし、結局自己陶酔の独善に陥らざるを得ないものであると論駁する。
西嶋老師の指導により、公案も、数息も無い、ただ坐る坐禅を習ってきた私たちは、頭で考える、何かを狙って行動を統制するという、日常で嫌になるほど体験していることを坐禅に持ち込むことはバカバカしいと、思う。
しかし、それに専心、目を剥き、歯を食いしばり、非日常の異常体験をねだってハアハアしてる人たちもいるらしい。
一方で、「恍惚感による実存不安の乗り越え」が通常の「宗教」の機能のひとつであろうと私は思う。だからそれを提供する「宗派」を否定はしない。
ただ、原理的な解決にならないそうしたシステム以上のものを仏教は与えてくれると思っている。
「仏道を特殊化して錯乱せしめる白隠師は(略)「無事これ貴人」を説く臨在大師をも誹謗したもの」とある。臨済派が皆、そうではないということだ。
論駁の構成は緻密に思える。200年前にからんできたのはあっちだし。
反対当事者からは再反論もあろう。それでも、能所を分かたず、分別を容れず、修行の確かさに証せられる、黙照の坐禅とは階梯が違うのでおそらく噛み合わないのだな、と思った。
両者は「同一富士山を登る登山口の相違」ではまったくない、と酒井師。
忘れていたが「公案でも数息観でも瑞息観でも、いずれ宝蔵はひらける」と言う曹洞宗僧侶と昔会った。それらを使い分けて坐禅の指導をしている、という曹洞宗寺院のホームページもある。
自分の師に即してのことだろうが、「龍蛇を弁ぜず」の類ということにならないか。
本論文中に引用されている面山和尚の、’道元禅師が用いていないことは、天下挙げて用いたとしても自分は用いない’の発言は、西嶋老師とまったく同じ。
広範に及ぶ道元禅師のテクストの外側に出ようとする必要は、無いということだろう。
最終節に永平広録より
「いまだ仏道の通塞を明らめず空しく至愚の独居を守るは、豈に錯に非ずや」
の語がひかれている。
サンガの重要さを思い返した一文だった。
by doutetsu | 2006-10-15 15:12
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