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2006年10月7日 『坐禅箴』 『仏向上事』

昨晩の大雨があがり、気持の良い秋晴れの午後
45分の坐禅の後、講読

テキスト現代語訳正法眼蔵第5巻 『坐禅箴』 最後まで
p42より

道元禅師が唯一最上と評する宏智禅師の坐禅箴の引用と解説、最後の部分
前回までが、
「事に触れずして知り、縁に対せずして照す」
の語をはじめとした坐禅の境地の説明部分。
残りの2文は、理屈では説明が徹底しないので、具体的なものを象徴として示す部分。
「水、清くして底に徹す、魚の行くこと遅遅たり
 空、濶(ひろ)くして、鳥の飛ぶこと杳杳たり」
道元禅師はこの句の「水が清く、空が濶い」とは、実在のどんな水とも空とも異なる際限の無い清さ、ひろさであり、それが坐禅の具体的な境地である、と解説する。

そして最後に自撰の「坐禅箴」を挙げる

『仏仏の要機、祖祖の機要
不思量にして現じ、不回互にして成ず・・・』

釈尊以来の最大事である坐禅の境地は、考えるということなしに現実化し、複雑さのかけらもなく目の前にあらわれる

その境地は自分になんの挟雑物もなく密着し、自ら体験するものである。
正しいとか誤りだとかの区別を超越して体験するものであり、
なにかのタメにする意図を持たずにただ坐るのである。

『水清くして地に徹し、魚行きて魚に似たり
 空濶くして天に透る、鳥飛んで鳥のごとし』

かぎりない境地のなかを魚は魚らしく泳ぎ、鳥は鳥らしく飛ぶ。
人間が人間らしい本来の姿に立ち返った状態が坐禅の姿である。

宏智禅師の坐禅箴に不足があるわけではないがさらにこのように言ってみるべきである、と、締めくくられる。


宏智禅師の坐禅箴が坐禅の心境を指し示したものだとすれば、道元禅師のそれはその境地がまさに現前する状態を指し示し、補完したものと思われる。

少し時間が余ったので、次の『仏向上事』の巻 
冒頭の、洞山良价禅師と僧のやりとりまで読んで終えた。

次回はテキストp53から。
by doutetsu | 2006-10-08 15:47 | 赤心会ゼミ録
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