提唱録にみる西嶋老師の思想

『人間の価値は世の中の基準にあわせてはかられるものではなく
 自分自身として何をするかという行いにある。
 その根底にあるのが仏道であり坐禅』

現在赤心会で聞いている「袈裟功徳」の提唱が行われたのは1979年の2月。
当時ロッキード事件が世間をにぎわせていたため、関連する言及や質疑応答が提唱録に記録されています。

その中で。
社会的な様々な基準は時代によって変わる。そういうものの中に仏道を認めるわけにはいかない。
戦争前は非常に弾圧された思想が戦後大いに羽を伸ばしたというふうに、時代の変化に応じて、いいものが悪くなったり悪いものがよくなったり変化する。
その変化のどちらかをとらえてちらちが正しくてこちらはダメなんだというとらえ方はできない。
そういう趣旨を述べられたあと

「たとえば具体的な例でいえば、戦前に死んだ人で小林多喜二という人がいる。
これは左翼関係の劇を書いたりなんかして非常ににらまれて、獄死したわけだけれども、小林多喜二がああいう思想を持っていたことが正しいとか、偉いとかということではなくて、芸術家として一所懸命自分の作品を書いたということ、そこにああいう小林多喜二なんかの人間としての偉さがあるんであって、それがある時代において非常に迫害を受けたというところに偉さがあるんではなくて、芸術家として、人間として立派に生きたというところに意味があるんじゃないか」

「やはり人間としてああいう生き方をし、ああいう死に方をしたとすれば、非常に優れた、ほかの人には真似のできないような立派な人生だったということもいえないことはない。
それは右の思想とか左の思想とかという、時代によって移り変わる問題じゃなくて、もっと本質的な、もっと人間としての生き方ということにならざるを得ないんじゃないか」

「今日こういう事態が現に生まれておって、その中にわれわれも生きておるという現実、これは否定ができない。そうすると、われわれ自身が現に生きておる根底というものにさかのぼって事態をもう一度見直さざるを得ないということになる。
だから、そういう見直しをするために仏道があり、坐禅があるんだと。
だから、仏道をやる、あるいは坐禅をやるということを離れて、一定の考え方をまず最初に持ってしまって、それで善悪がどう、あるいは因果関係がどうというふうには考えることができない

正法眼蔵提唱録 第二巻上 255-256頁より。
by doutetsu | 2016-10-16 16:35 | 西島老師について
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