5月21日「有時」の巻 読了

45分の坐禅の後、「有時」の巻2回目。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳 正法眼蔵 第二巻」

冒頭で西嶋老師が1978年12月28日にこの巻を提唱されたときの冒頭の音声を再生し、皆で聞きました。
老師のなつかしい朗々たる声が響きます。
計算すると59才になったばかりの頃ですが、とてもそうは思えないほど老成し、確信に満ち、説得力のある、まさに「老師」のお声でした。

『「有時」というのは「あるとき」。<略>われわれの人生というのは何かというと、こういう-行いと関連した-「あるとき」という時間の連続です』
時間を過去、現在、未来と続く一本の線のように考えると、抽象的には理解されるがわれわれの人生における本当の時間とは別のものになってしまう。時間・存在・行為について、実存主義など20世紀の哲学でも語られるような高度な思想を、釈尊の教えそのものとして道元禅師は説かれた。
難しい巻であるけれども、一つにはわれわれの常識的な考え方とちょっと向きが違うから。
われわれはなぜ坐禅をするか。
『坐禅をやることによって従来の考え方とは違う、本当の意味での人生というものをとらえるような考え方に移っていくということがあるわけです』
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テキストP30
「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」
時間とは抽象的に空に存在するものではない。何らかのことが行われている、何らかのものがあるという事実と関連してのみ時間は存在する。また時間と関係ない存在はない。「ある」ということは時間と関係してだけある。
P31
「正当恁麼時のみなるがゆえに、有時みな尽時なり、有艸有象ともに時なり」
時間とは今この瞬間しかない。瞬間、瞬間の時間が一切の時間にほかならない。かつ、存在する事物も現象も時間においてある。
P38
「おほよそ羅篭とどまらず、有時現成なり」
人生を束縛する煩いは限りがない。それらもすべて現実の時間、瞬間においてある。
「いま右界に現成し、左方に現成する天王天衆、いまもわが尽力する有時なり」
あるいは右に、あるいは左に出現してわれわれを守護してくれる天王や天使も、われわれ自身が常にベストを尽くしている現実の時間があればこそ出現する。
日常生活のわずらわしいことをコツコツしのいでいくのが人生。思い通りにならない人生の中でも、ふと恵まれている、何かに助けられていると感じることがあるが、それは人間が現在の瞬間を生きているから。

提唱録を読むと「有時」の巻の終わり近く、西嶋老師はこう話されました。
『いいとか悪いとかいってみても、そんなことより大事なのは自分自身が一生懸命生きているかどうかということ。
『仏道がなぜ必要かといえば、そういう点で自分の人生というものが持っておる意味というものをつかむということがある。それは偉いとか偉くないとかいう問題を乗り越えた、自分の生命というものの瞬間、瞬間の現れに気がつくかつかないかということに尽きる』
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以下は、2回にわたる「有時」の読み取り後のディスカッションでの発言です。
「現代の科学や思想を釈尊や道元禅師が先取りしていたように見えることはある。いっぽうその‘先進性’を教えの正しさに援用するのは贔屓の引き倒し」
「実数の時間軸と虚数の空間軸からなる複素数平面における(瞬間×存在)の連続が生命ではないか」
「時間が瞬間にして永遠とは、長さを持たない点の無限の集合が線分になるようなことか」
「正法眼蔵は各巻ごとに、思想・教え説いた巻(仏)、宇宙・世界を説いた巻(法)、生活・戒律を説いた巻(僧)という力点があるように思える」
「西嶋老師は全95巻を苦・集・滅・道で分類されていた(道元禅師と仏道下巻)」

などなど。
by doutetsu | 2016-06-05 15:03 | 赤心会ゼミ録
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