弁道話-主客を超え、知覚にもおさまらない、自受用三昧の直接体験

3月7日
道元禅師32歳の撰述とされる「弁道話」の2回目。テキスト「現代語訳正法眼蔵第1巻」20ページより。
坐禅とはどういうものであるかの説明。
よく知られた気迫のこもった言葉のある部分です。

『宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香、礼拝、念仏、修懺、看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ』
一系に正しく伝えられた坐禅こそが最高のものであって、それ以外の焼香、礼拝、念仏などは無用である。
『もし人一時なりとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、偏法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる』
人がほんのわずかの時間でも釈尊と同じ三業-身・口・意-すなわち手を組み足を組み上体を伸ばし、口を閉じ、思いを追いかけることもとらわれることもない状態で坐禅をすれば、宇宙全体が釈尊と同じ状態になり、この世界の一切が真実と一体になる。
『しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏(こん)せざらしむることは、静中の無造作にして直証なるをもてなり』
坐禅についての本人の知覚、意識されるところと、坐禅の実態は別物である。「わかった/わからない」「さとった/さとらない」というものとは無関係である。静かに何もしないでいることが坐禅であり、何かを考える、感じるという必要のない直接の体験である。
したがって、無数の「仏」とよばれる真理体得者が力をあわせ崇高な知恵をもってしても、
『一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ』

次に、これも有名な坐禅に関する18問答が始まります。その3問目の道元禅師が設定した想定質問は「そうは言っても例えば経を読んだり念仏を唱えることはやった感もあるし、悟るための手段になるだろうに、むなしく坐っていてどうして悟れるのか」。
これにこたえる中で、
『不信のひとはたとひをしふともうくべきことかたし、<略>しかあらずばしばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ』
すでに多くの真理体得者がこの「自受用三昧」-自分を受け取り自分を用いきる坐禅を味わってきたが、信じられないのであれば、やらなくていい。宇宙秩序は冷厳であって、人を甘やかしてはおかないことを恨むしかない。
経典は修行のありようを教えているのであって、修行をせず概念をもてあそぶことが真実を得ることにつながるなどとは説いていない。
だから、
『口声をひまなくせる、春の田のかへるの、昼夜になくがごとし、つひに又益なし』
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西嶋老師の説く仏教哲学のポイントのひとつに、主観と客観の関係の捉え方があります。
1978年に今回の箇所を提唱される前置きののなかで、主観と客観とは別々には実在しない。主観と客観が触れ合うところに現実がある、と語られています。
「ただ、坐禅のような形で、何も考えずに、背骨を伸ばしてジーッとしておると、確かに自分というものがここにはっきり坐っておるということを感じると同時に、この自分の坐っておる周囲には、とてつもなく大きな宇宙というものがあるということも一緒に感じる」-提唱録第1巻上P74
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終了後の談話で、仏教の哲学としての側面と宗教としての側面という話が出て、「宗教」は江戸期以前からあった言葉が異なる用法である「religion」の訳語にあてられた、という話も出ました。道元禅師の時代、世界を説明し人間の幸福を追求するために仏教以上に大きい「学」はなかったはず、とも。
仏教の「宗教」性。これに関する議論は数多いようです。
衛藤即応は、仏教がヨーロッパに紹介された当初、仏教に世界創生神話がなく「祈り」が無いため、学者間では「宗教」ではないものと捉えられた、と著書で紹介しています。やがて「祈り」のかわりに「禅定」を中心とする宗教ととらえ直された、と。
西嶋老師も明治以降流入したキリスト教的な「宗教」観によって仏教の捉え方が変容した可能性をしばしば説いていました。
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次回は4月4日。テキストP32からになります。
by doutetsu | 2015-03-15 14:42 | 赤心会ゼミ録
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