2017年2月予定

2月は4日(土)、18日(土)に予定通り実施します。
14時半より45分坐禅。その後「正法眼蔵」西嶋老師提唱音声を聴講。

4日は「13.正法眼蔵伝衣」の終盤。テキス166ページから最後まで、老師の音声を聞いていきます。
ディスカッション含め早く終われば続いて次巻「16.正法眼蔵山水経」に進みます。
# by doutetsu | 2017-02-01 09:05 | 活動・連絡

2017年1月の活動について/小乗と大乗

明けましておめでとうございます。

本年も毎月第1・3・5土曜日の14時半から17時まで「坐禅と正法眼蔵研究」の会を実施してまいります。
(東大仏教青年会の閉館日を除く)

1月は7日と21日に実施します。
坐禅室で45分坐禅の後、講義室で老師提唱録音を聴講。
テキストは西嶋和夫著『現代語訳 正法眼蔵 第2巻』
「13.伝衣」の途中、テキスト145ページより。

前巻「12.袈裟功徳」と内容的に重複の多い巻でありますが、老師の方針にならい着実に読んで行きたいと思います。(1月で「伝衣」は終了の予定)
なお、1月7日は提唱録音聴講後、英語の会の幹事でもあるO氏より老師の英語の著作
「to Meet the Real Dragon」
につき紹介をしていただく予定です。

■■

昨年最後の会では、当ブロガーの最近の体験の話をしました。
ある若いアメリカ人の弁護士との間で仏教の話が出たとき、彼は即座に
「大乗(マハーヤーナ)よりテーラワーダのほうがより古く、正統だと思う」
と言いました。
近年、日本でもテーラワーダ仏教への関心が高まっています。
西嶋老師は「伝衣」の1979年3月の提唱のあとの質疑応答でこのように言われています。

「両方(大乗仏教といわゆる小乗仏教)のいいものをとったところに本当の仏教があるのだと思います。
だから、あれば小乗だ、あれは大乗だといっているのはどうも、どっちもあまり本ものでないということを少なくとも道元禅師はいっておられる」

これは、著書『仏教思想のゼロポイント』で注目の集まる魚川祐司氏の、プラユキ・ナラテボー師との最近の対談での
「『正しい/本当の仏教』といった議論にこだわり過ぎることは、2500年の仏教史が育んできた豊饒な思想的多様性の果実を十全に受け取りにくくなる」
という発言を思い出させます。

このあたりは、「ヴィパッサナー瞑想と坐禅」のかねあいの問題などとも相まって面白いテーマです。
赤心会においてもディスカッションをしていきたい所以です。
# by doutetsu | 2017-01-03 23:18 | 活動・連絡

11月19日「伝衣」

45分の坐禅の後、講義室で「正法眼蔵」の講読。
テキスト「現代語訳正法眼蔵第2巻」の125ページ、「一三.伝衣」の第1回。
前巻「袈裟功徳」と同じく、老師の提唱音声を聞いていくことにしました。

テキスト冒頭「本巻の大意」
『伝衣とは<略>袈裟の伝承または袈裟そのものを意味しているが、本巻の内容は袈裟功徳の巻のそれに酷似しており、全く同文の箇所もかなりある。しかも<両巻の奥書は>全く同一日付になっている。ただ袈裟功徳では「衆ニ示ス」となっており、伝衣では「記ス」となっているから、袈裟功徳の巻は、当日における説法の筆録であり、これに対し伝衣の巻は、説法のための草稿ではなかったかと考えられる、しかしこの仮説の真否は将来における学者の細密な検討に待ちたい』

P127
俗なほいはく、その人の行李をみるは、すなはちその人をみるなり。
いま仏衣を膽礼せしは、すなはちほとけをみたてまつるなり。
p130現代語訳
俗世間においてさえ、「その人の行動を見るということは、とりもなおさずその人そのものを見ることである」と言っている。
<したがって>いま釈尊の制定された袈裟を拝見し、礼拝し得たということは、ただちに釈尊そのものを拝見し奉ることである。

提唱ではこの行李=行いについての考え方は非常に大切、と補足されています。
『人間をみるうえで、あるいは仕事においても『口というものと何をやっているかということとどっちが基準になるかといえば、何をやっているかということのほうが基準になるわけです』

この日は本文128ページまで(訳文132ページまで)。



なお、次回12月3日は当幹事が出席できないので、有志坐禅のみとなります。
ただ英語の会幹事でもある幹事会員の方が、老師音声データを持参されるので、当日参加で希望者があれば別巻を聴講するようにしていただけるとのことです。
# by doutetsu | 2016-11-22 05:56 | 赤心会ゼミ録

提唱録にみる西嶋老師の思想

『人間の価値は世の中の基準にあわせてはかられるものではなく
 自分自身として何をするかという行いにある。
 その根底にあるのが仏道であり坐禅』

現在赤心会で聞いている「袈裟功徳」の提唱が行われたのは1979年の2月。
当時ロッキード事件が世間をにぎわせていたため、関連する言及や質疑応答が提唱録に記録されています。

その中で。
社会的な様々な基準は時代によって変わる。そういうものの中に仏道を認めるわけにはいかない。
戦争前は非常に弾圧された思想が戦後大いに羽を伸ばしたというふうに、時代の変化に応じて、いいものが悪くなったり悪いものがよくなったり変化する。
その変化のどちらかをとらえてちらちが正しくてこちらはダメなんだというとらえ方はできない。
そういう趣旨を述べられたあと

「たとえば具体的な例でいえば、戦前に死んだ人で小林多喜二という人がいる。
これは左翼関係の劇を書いたりなんかして非常ににらまれて、獄死したわけだけれども、小林多喜二がああいう思想を持っていたことが正しいとか、偉いとかということではなくて、芸術家として一所懸命自分の作品を書いたということ、そこにああいう小林多喜二なんかの人間としての偉さがあるんであって、それがある時代において非常に迫害を受けたというところに偉さがあるんではなくて、芸術家として、人間として立派に生きたというところに意味があるんじゃないか」

「やはり人間としてああいう生き方をし、ああいう死に方をしたとすれば、非常に優れた、ほかの人には真似のできないような立派な人生だったということもいえないことはない。
それは右の思想とか左の思想とかという、時代によって移り変わる問題じゃなくて、もっと本質的な、もっと人間としての生き方ということにならざるを得ないんじゃないか」

「今日こういう事態が現に生まれておって、その中にわれわれも生きておるという現実、これは否定ができない。そうすると、われわれ自身が現に生きておる根底というものにさかのぼって事態をもう一度見直さざるを得ないということになる。
だから、そういう見直しをするために仏道があり、坐禅があるんだと。
だから、仏道をやる、あるいは坐禅をやるということを離れて、一定の考え方をまず最初に持ってしまって、それで善悪がどう、あるいは因果関係がどうというふうには考えることができない

正法眼蔵提唱録 第二巻上 255-256頁より。
# by doutetsu | 2016-10-16 16:35 | 西島老師について

10月、11月の活動について

先月に続き、坐禅の後、「正法眼蔵 袈裟功徳」の巻の西嶋老師の提唱音声を聞いています。
テキストは「西嶋和夫著 現代語訳正法眼蔵第2巻」

10月1日は(当幹事は欠席しましたが)、テキスト98ページ分まで音声聴講が行われました。
本日15日および29日の土曜日は通常通り実施します。

11月は5日が幹事欠席、19日は通常通り実施の予定です。
# by doutetsu | 2016-10-15 10:05 | 活動・連絡

明日9月17日の活動予定

明日9月17日は通常通り活動します。

14時半より坐禅室で坐禅(1回)
その後、講義室で「正法眼蔵」購読
17時終了予定です。

購読のテキストは
西嶋和夫著『現代語訳正法眼蔵 第2巻』
「袈裟功徳」の巻の途中(テキスト86頁)から
になります。
貸出用テキスト/サブテキストあり。

なお、「袈裟功徳」については、西嶋老師の
提唱録音を聞きながら読んでいきます。

10月1日は幹事都合により、購読はお休み
とさせていただいます。
# by doutetsu | 2016-09-16 14:07 | 活動・連絡

今後の予定(30日ナシ/9月予定/追善坐禅会)

7月30日(土)の第5土曜日は、会員協議の上休会としました。
8月は東大仏青が夏季休館となるため、次回の「坐禅と正法眼蔵研究会の開催は、9月以降の第1、第3土曜日となります。

なお、9月3日(土)、4日(日)は「西嶋老師追善坐禅会/お墓参り」を予定しています。
9月3日(土)は通常の坐禅・購読は行いません。午前中から坐禅をはじめ、午後は坐禅、法要、懇談会の予定です。
※参加要領については個別に連絡しておりますので、何かあれば当ブロガーにメールにてご連絡ください。

9月17日(土)は従来通りの開催。
14:30から45分間の坐禅、その後「正法眼蔵 袈裟功徳」提唱(音声)聴講。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳 正法眼蔵 第2巻」。86ページの、前節で引用した悲華経(袈裟の「五聖功徳」)への道元禅師の解説から、になります。
# by doutetsu | 2016-07-30 00:03 | 活動・連絡

正法眼蔵と輪廻 西嶋老師は


「袈裟功徳」の提唱録に残された質疑応答で、「中有」という用語の使い方が、他の巻で読み取れる‘生まれ変わりの否定’と矛盾している、というやりとりに関連して。
7月16日の提唱(音声)聴講後のディスカッションの際、「仏教思想のゼロポイント」の著者である魚川祐司氏の「『ブッダは輪廻を説かなかった‘はずだ’』論批判」を振りかえりました。(ニー仏(魚川祐司)「だから仏教は面白い」から)

いわく。
輪廻否定派の言説の例に、『仏教では「無常・苦・無我」を謳う。無我なのに何が輪廻するのか』というものがあるが、無我と輪廻は矛盾しない。
無常:現象世界はすべて‘縁生’であり、因縁によって変転し続ける。
苦:すべて変転する以上、満足状態にとどまることは不可能。
「苦=不満足」の繰り返しになる。
無我:変転極まりない現象世界で‘常一主宰’の我は存在しない。

不変の主体が生まれ変わることが輪廻ではない。すべてが変転していく(輪廻する)中のある部分を切り取って、‘ある個人の一生’とみなすことができるに過ぎない。
ということのようです。

加えて、インド思想における「業」の概念。
インド思想において人間の行い=「業」は必ずあとあとに影響する。潜勢力を持つ。
これは西嶋老師が「仏教は行いを中心とする教えである」と説かれる際の説明とも共通します。
魚川氏は著書で、(西嶋老師も著作を読んだと言われた)木村泰賢博士の輪廻の説明を提示します。その概略は..。

Aという個人が死んでもその人間が人生の瞬間瞬間(A1、A2、A3・・・An)に行った「行い」は必ず影響を残す。
その影響aは‘次の’生存者であるBに及び、そのときBの生涯はaB1からスタートする。
Bmで死んだBの業はCの(初期)設定に影響し、すなわちbC1となる。
以後繰り返し。
これが輪廻だ、と。
はたして腑に落ちるか、という話になりました。

***

「私の生涯」は現象世界に生起するなにごとかの部分に過ぎない。
たしかに。
一方で、今ここにいある「私」の実存の実感はかけがいがない。

***

関連して思いだす西嶋老師の言葉をいくつか。
「ないです。死ねば永遠の休息があるだけ」(「死後の世界はあるか」と聞かれて)
「断見≒唯物論も外道、常見≒観念論も外道」
「我々ひとりひとりの行いは宇宙の歴史に永遠に刻まれる」

‘私の’死後はあるか、と聞かれれば、「わからない/ゼロ回答」というのが妥当解とされるけれども、「無い」という言明のほうがより‘正しい’、というお考えだったのでしょうか。
# by doutetsu | 2016-07-29 23:58 | 活動・連絡

7月16日 正法眼蔵「袈裟功徳」

7月16日(土)坐禅の後、講義室で前回に続き西嶋老師の提唱音声を聴講。

テキストは『西嶋和夫著 現代語訳 正法眼蔵 第2巻』
「12.袈裟功徳」の4回目。「袈裟功徳」はテキストでは76ページ、29節に分けて掲載されている長大な巻です。

巻頭49ページ<本巻の大意>より。
『本巻においてはその袈裟の中、第二十八祖の達磨大師が印度から支那に伝えられたものこそ、正統の袈裟であることを主張され、その袈裟の効用、かけ方、洗濯の方法について述べられている』
1979年2月の提唱で西嶋老師はこう述べられています。
『普通『正法眼蔵』の提唱をやる場合こういう宗教的な伝統に関係した巻はやらない。(略)「現成公案」であるとか、「諸悪莫作」であるとか、やりがいのある、哲学的に難しそうな、おもしろそうなのだけがやられる。ただ『正法眼蔵』というのは、こういう「袈裟功徳」のようなそう理論的でない、そう哲学的でない巻も読まないと全体の意味がとれない、というふうに私は感ずる。だからこういう巻も抜かさずにやるということになる』
そういう巻ですので、西嶋老師の提唱をそのまま聴講することにして、進めています。

***

16日は78ページの「袈裟を浣う法」からはじめ、80ページの悲華経巻八「諸菩薩本授記品」からの長い引用(袈裟の5つの優れた効用)まで老師音声を聴講しました。

**

この部分が納められた提唱記録に(提唱録2巻上P232)、「袈裟功徳」の巻に出てくる「中有」と言う言葉についての質疑応答が記載されています。
語註に「中有=意識を持つ生きものが、死の瞬間から次の世に生を受けるまでの中間の時期」とあるが、「現成公案」の巻の「薪は灰となる、灰は薪とならない」といった解説と矛盾があるのではないか、というものでした。
道元禅師は(正法眼蔵は)輪廻があるということを肯定していたのか否か、という疑問であったと思われます。
この点についてのディスカッションはま別項で。
# by doutetsu | 2016-07-29 23:09 | 活動・連絡

6月4日「袈裟功徳」

45分間の坐禅の後、「袈裟功徳」1回目。
テキストは西嶋和夫著「現代語訳 正法眼蔵 第二巻」

今回、試みに西嶋老師のこの巻の提唱の音声を通しで聞くことにしました。
ちなみに袈裟功徳は「道元禅師と仏道下巻巻末リスト」では
『集諦のグループ-「伝統」-滅』
すなわち、
客観的事物をとりあげ、仏教伝統の、現実を説く、巻
と位置づけられています。

提唱(録音)冒頭の老師の本巻の解説より
『仏道においてはそういう心とか物とかいうものを二つに分けること自体が現実を見損なう、われわれが住んでいる世界と言うのは物だけでもない、心だけでもない、そういうものが二つに分かれない以前の一つの非常にはっきりした実体がある/
仏教というのは形式も重んじるし、中身も重んじる。形式と中身が一体になったものが法だから/
そういうことの一つの現れが袈裟にも現れてきている/
だから外側を大切にすることによって中身を大切にすることにもなるし、中身を大切にするということは、外側を大切にすることでもある。そういう趣旨から書かれた巻の一つがこの「袈裟功徳」の巻ということになろうかと思う』



テキストp58まで、進みました。
テキストでは29節におよぶ長い巻の3節まで。

お袈裟さは釈尊以来、代々祖師方に伝えられた尊いものである。
無数の仏が受持し、その功徳を学んてこられた。
「たとひ自己なりとも、たふとぶべし」
だから自分がお袈裟をかけたならば、仮にそれが自分自身であろうともお袈裟をかけたというだけで尊敬に値するものになる。
中国に仏教が伝わって以来、多数の者がインドと中国を往還したけれども、サンスクリットの経本を伝来することはあっても、仏教の奥深い所は釈尊以来の正当な伝承者である祖師を通じてのみ伝わった。
「浣洗の法、および受持の法、その嫡嫡面授の堂奥に参学せざれば、しらざるところなり」

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次回は6月18日(土)、P60「大乗義章」引用部より。
# by doutetsu | 2016-06-05 16:04 | 赤心会ゼミ録